5分でわかる「和田義盛」の要点解説

和田義盛

和田義盛 (わだ-よしもり) は、鎌倉時代に活躍した御家人(武将)で、1147年に杉本義宗(三浦義明の嫡男)の長男として誕生しました。
父・杉本義宗(三浦義宗)は、三浦氏の本拠地である衣笠城から、鎌倉・杉本城を築城すると本拠を移したようです。
父の兄弟には、三浦義澄大多和城大多和義久、相模・佐原城の佐原義連、相模・長井城の長井義季などがいます。
母は大庭城主・大庭景継の娘で、弟としては、和田義茂 (わだ-よしもち)、和田義胤、和田義長、和田宗実と、姉妹に小笠原遠光の正室がいてます。
1163年秋、父・杉本義宗は、三浦水軍を率いて、房総の長狭常伴を攻撃しましたが、矢を受けて負傷して戻ると、相模・杉本城にて亡くなりました。享年39。
この時、和田義盛はまだ17歳くらいだったためか、三浦氏の家督は、父の弟である三浦義澄(みうら-よしずみ)が継ぎました。
そのため、和田義盛は、三浦半島にある和田郷の相模・和田城へ入り、和田氏を称しました。

相模・和田城

和田義盛の正室は、伊勢神宮外宮・豊受大神宮七社の禰宜・度会康高の娘で、側室としては、横山党の横山時重の娘がいます。

三浦一族は、1160年、平治の乱でも源義朝に従てっており、1180年に、源頼朝が挙兵した際にも、最初から協力します。
源頼朝が挙兵した際には300騎程度の兵力だったため、300騎の三浦氏が、頼みの綱でした。
三浦義澄、和田義盛・和田義茂らは源頼朝に合流するべく、陸路、伊豆を目指しまし、辻堂では大庭景親の屋敷に火を放ちました。
しかし、大雨による酒匂川の増水で遅れたところ、大庭景親は先に決戦を挑み「石橋山の戦い」となって、源頼朝は敗れて山中に隠れました。



三浦一族は、頼朝軍の敗北を知り、引き返しましたが、鎌倉の由比ヶ浜で、この時、平家側であった畠山重忠500騎と遭遇します。
この時、和田義盛が名乗りをあげて双方対峙しましたが、畠山重忠の母は三浦義明の娘でもあり、お互いに良く知る仲であったため、そのままやり過ごす模様となりました。
しかし、相模・杉本城を守っており、遅れてやってきたことで、事情を知らなかった、弟・和田義茂が畠山勢に突撃したため、畠山勢によって、和田義茂は討ち取られています。
小壺の戦い(小坪合戦)と言いますが、三浦勢は、相模・衣笠城に撤退しました。
翌日、畠山勢に、河越重頼・江戸重長・中山重実・村山党ら数千騎が合流して、三浦義澄・佐原義連・和田義盛・金田頼次・長江義景・大多和義久が守る衣笠城を攻撃しています。

消耗していた三浦氏は、夜間に衣笠城を捨てて、六浦から船で安房へ向かいました。
東京湾で北条時政らの船と合流すると、猟島にて源頼朝を迎えています。
この間、衣笠城に残っていた、老齢の三浦義明は討ち取られて、衣笠城は落城しました。(衣笠城の戦い)

三浦一族は、房総にて源頼朝と合流すると、千葉常胤・上総広常を傘下に加え、大軍となって1ヶ月後には武蔵国に入ります。
すると、畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父一族は、隅田川の長井の渡し(橋場の渡し)にて、源頼朝に付き従うようになりました。
この時、源頼朝は「江戸重長らは源家に弓を引いた者であるが、このように勢力の有る者を取り立てなければ、目的は成し遂げられないであろう。憤懣を残してはならない。」と三浦一族をなだめたとあります。



1180年11月17日、源頼朝は、和田義盛を侍所別当に任じています。
侍所別当(さむらいどころべっとう)と言うのは、鎌倉に集まった東国武士を統率をするのが「侍所」で、長官と言う意味が「別当」です。
その後、鎌倉・大倉御所が完成すると、入御の儀式では、和田義盛が御家人の最前列に立って、源頼朝を出迎えました。

その後、源頼朝の弟・源範頼の軍勢に加わると、軍奉行として平家討伐のため、九州にも参じました。
ちなみに、海路を進んだ、源義経の軍奉行は、侍所所司(侍所のナンバー2)である梶原景時です。
1189年6月、源義経の首が鎌倉へ届くと、和田義盛と梶原景時が首実検を行いました。
奥州合戦では、藤原国衡を矢で射抜いています。
1190年9月、源頼朝が上洛した際には、和田義盛(和田左衛門尉義盛)が先陣を賜りました。
1192年、梶原景時が、1日だけ、侍所別当を交代させてくれと言ったため、喪に服すため所領に帰る際に交代しましたが、騙されたとあり、梶原景時が侍所別当に就任しました。

1199年、源頼朝が死去すると、鎌倉幕府2代将軍・源頼家のもと、和田義盛は「十三人の合議制」に列しています。
その後、梶原景時が失脚すると、1200年、和田義盛が侍所別当に復職しています。
1203年、比企能員の変で、北条政子が比企氏討伐を命じると、和田義盛も討伐軍に加わりました。
比企一族と共に、源頼家の子・源一幡(母は比企能員の娘・若狭局)も自害したため、その後、知った、源頼家は、和田義盛と仁田忠常に、北条氏討伐を命じる御教書を差し出し、堀親家が届けました。
この時、和田義盛は、その御教書を、そのまま北条時政に届けたため、堀親家は捕えられて殺害され、仁田忠常も北条氏によって滅ぼされています。
その2日後、将軍・源頼家は、伊豆・修善寺にて謹慎となり、弟・源実朝鎌倉殿になって、北条時政が初代執権に就任するのでした。
1205年には、畠山重忠が謀反の疑いで、北条義時らの軍勢にて討伐されています。
また、北条時政は源実朝を廃しようとしたため、、北条政子と北条義時は、北条時政を追放し、2代執権に北条義時が就任しました。



このように、有力な御家人は、北条政子らの北条氏の思惑で、排除されてきましたが、いよいよ、和田義盛の身にも降りかかります。
1209年、和田義盛は「一生の頼み」として、上総の国司を幕府に求めましたが、尼御台・北条政子は拒絶します。
そんなおり、1213年、信濃源氏の泉親衡(泉小次郎親衡)が、亡き源頼家の遺児・千寿丸を擁立して、執権・北条義時を倒そうと画策します。
和田義盛が、上総国にあった領地・伊北庄に出向いていた際に、和田義盛の子である和田義直、和田義重、甥の和田胤長らが、謀議に加わったとして、捕縛されました。
和田義盛は一族98人を引き連れ嘆願したことによって、和田義直・和田義重は赦免されましたが、和田胤長に関しては、大江広元が許さず、二階堂行村に預けられて、陸奥国岩瀬郡に配流となっています。
ただし、鎌倉の和田胤長屋敷は、和田義盛が拝領することに決定し、久野谷彌次郎に屋敷の管理をさせました。
しかし、その決定に、執権・北条義時が反対し、結果的に、北条氏預かりとなり、和田胤長を逮捕した金窪行親・金窪忠家に与えられました。
通例では、罪人の屋敷は、その一族に下げ渡される慣わしだったため、侍所別当として、面目を潰された和田義盛は、北条氏打倒を決意します。

和田義盛の乱に賛同したのは、子の朝比奈義秀、親戚の横山党、波多野氏、三浦一族の本家筋である三浦義村などです。
鎌倉の和田義盛邸に、武装した和田勢が続々と集まったため、隣りに住む八田知重が、大江広元に通報します。
北条義時は、北条政子と源実朝の妻・坊門信子を鶴岡八幡宮へ避難させ、北条朝時・足利義氏・北条泰時・北条時房らと大倉御所の警備を厳重にしました。
横山党がまだ到着しないうちに、和田勢は、夕刻から大倉御所を攻撃しましたが、なんと、三浦義村が幕府側に寝返ります。
三浦義村も、和田義盛が挙兵すると、北条義時に報告しており、弟・三浦胤義と相談して、土壇場で寝返ったのでした。
こうして、押された和田勢は、由比ガ浜まで撤退したところ、翌朝、横山時兼ら横山党3000余騎が、八王子から駆けつけました。
そして、和田勢は鎌倉になだれ込んだので、市街地戦となります。
そんなところに、急の知らせを聞いた、相模・伊豆の御家人が、鎌倉にも入ったので、誰が味方で敵か?、分からない状態になったと言います。
大江広元は、将軍・源実朝の名にて、御教書を作ると、各軍勢に使者を送ったため、御家人らの多くは、幕府側につきました。
1213年5月3日夕刻には、和田義盛の子・和田義直が討死し、江戸義範の郎党によって、和田義盛も討ち取られました。(享年66)



敗走した和田勢は、和田義重、和田義信、和田秀盛も命を取られて、横山党も壊滅しています。
朝比奈義秀は、船にて安房に逃れたとされています。
和田氏・横山党は滅亡し、武蔵国横山荘は大江広元に与えられました。
また、執権・北条義時は、侍所別当を兼任することになり、それまで兼任していた政所別当とあわせて、鎌倉幕府での実権を掌握したと言えます。

由比ガ浜にある和田塚駅の近くには、和田合戦の死者を葬った「和田塚」があります。
和田義盛の墓所は、三浦市の白旗神社です。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、和田義盛を俳優の横田栄司さんが演じられます。

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