鳥居強右衛門の解説 崇敬され続ける武士の生き様

鳥居強右衛門

鳥居強右衛門(とりい-すねえもん)は、天正3年(1575年)武田家と徳川家の間で起こった長篠城の戦いにて活躍した長篠城守将・奥平信昌の家臣です。
この戦いは同年に起こる長篠の戦いの前哨戦になるもので、強右衛門はその籠城戦での行動により後世まで崇敬されます。
系図や口碑によると強右衛門は、天文9年(1540年)三河国宝飯群八幡村市田にて父兵助、母佐与のあいだに誕生、幼名を兵蔵と言い2弟2妹がいました。
文武に通じ性剛直にして人に屈することを欲せず、自ら強右衛門を称します。
妻はゆきと言い、墓がある甘泉寺の位牌には享年36才とあります。
この享年は後世の資料と見比べて一致していますが、他の情報については確証がなく不明であり強右衛門は百姓とも武士とも言えない低い身分だったと言われています。
また強右衛門の子孫と称する鳥居家は、その後奥平信昌の4男松平忠明に仕えており、享保2年(1717年)に成立した藩士諸家の由緒書集『勤書』にて7代目強右衛門が初代からの名跡を記しています。
その中では強右衛門の息子である2代目強右衛門(諱は信商)が父の功により100石を与えられ、関ヶ原の戦いでは西軍の安国寺恵瓊を捕らえるなど武功を立て最終的には1,200石を給されたと記されています。



天正3年武田勝頼は敵対する徳川家康の領国三河へ軍事行動を起こします。
そして同年4月勝頼は自ら軍勢を率いて出陣、武田軍は東三河の徳川方諸城を降しながら5月1日、2,0000人にて奥平信昌が守る長篠城を包囲します。
資料によると、武田軍は金堀衆と呼ばれる鉱山の抗夫を動員して城攻めを行っており、その攻撃は長篠の戦いが起こる3日前、同月18日まで行われたと言われています。
対する奥平軍の人数は武田軍の1/100程度と考えられており、奥平軍はその圧倒的戦力差のなか半月もの間持ちこたえます。
『松平記』によると、家康は勝頼が大軍を動員したことにより自軍のみでの後詰を断念、同盟者である織田信長へ援軍を要請します。
これを受けた信長は5月13日に嫡男織田信忠とともに岐阜を出陣、14日に岡崎城に入ります。
そして抵抗を続ける長篠城内ではこのとき家康への使者を選出しており、それに選ばれたのが鳥居強右衛門でした。

鳥居強右衛門に課せられた任務、その後の描写は資料により若干異なっており、『三河物語』によると信長の出馬の有無を確認するための使者、『甫庵信長記』では兵糧が尽きたので信長へ後詰を請うための使者となっています。
また同書ではその後の強右衛門の様子が詳しく書かれており、母子のことを頼み辞世の句を詠んだ強右衛門は5月14日に長篠城を出立し15日の晩には岡崎城にて織田信長に面会し長篠城の危機を報告。
信長は休んでいくよう伝えますが強右衛門は再び岡崎城を出立、16日の夜半には長篠城に到着しますが城内への侵入に失敗し武田軍に捕縛されます。
その後武田軍の取り調べに悪びれず任務を白状した強右衛門に武田勝頼は所領を与え召し抱えることを約束、武田逍遥軒が城内に開城を説得するよう要請します。
そしてこれを受諾した強右衛門は、警護とともに城へ近づいたとき城内に援軍の到着を報告し、2・3日の辛抱だと奥平軍を鼓舞します。
この強右衛門の行いに対し勝頼は「義士」だと助命しようとしますが、強右衛門が自ら請うて17日に殺害されたと書かれています。



一方『三河物語』では城を脱出した鳥居強右衛門が、徳川家康と織田信長に面会し援軍の報を聞くまでの細かい描写はなく、長篠城にて武田逍遥軒の持ち場にて捕らえられた強右衛門に対し、武田勝頼自身が召し抱える見返りに、磔の状態で長篠城内に対し援軍は来ないと伝えるよう要請。
その後磔で引き出された強右衛門は『甫庵信長記』と同じような内容を籠城軍に報告し、敵の強みをいう奴と武田兵にて殺害されます。
上記以外の資料でもこの強右衛門の話は多数記されていますが同世代の資料はほとんどなく、一番古いものが両資料であり実際の強右衛門の行動は分かっていません。

この鳥居強右衛門の壮絶な生き様は当時の武士からも称賛されており、強右衛門の最後を描いた旗差物(背旗)が現存しています。
その制作過程に関する挿話では、落合佐平次道次(道久)という武田方の武士が、磔にされた強右衛門自身にあなたが死んだとしてもその志を長く伝えたいので今の姿を描いて背旗にする許可をもらい、苦しんでいる強右衛門を鉄砲で絶命させたと言われています。
しかし、道次は実際には徳川方の武士であり、道次はその事件の目撃談によって旗指物を制作したと考えられています。
そして実際にこのとき作られたと言われる旗指物は戦場で使用された形跡があり、その後紀州藩藩士となった落合家に伝来した旗指物は、子孫も代々制作し現在では5点確認されています。
また江戸時代後期、幕末にかけて強右衛門の図像は幕臣平山行蔵によって賛文がしたためられ、物語とともに各地に流布します。
また近年ではこの旗指物の研究により強右衛門は逆さ磔だったという説が提起されており、その真相は議論されています。



こうして鳥居強右衛門の物語は江戸時代より武家へ広まり、近代では国定教科書『尋常小学読本』にその物語が掲載され、浮世絵や狂言、歌舞伎にも登場することにより一般社会にも広まります。
そして現在にいたるまで強右衛門の出生地や長篠で鳥居強右衛門は崇敬され続けているのです。

(寄稿)kawai

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