阿南姫 伊達政宗と対立した政宗の伯母

阿南姫

伊達家と蘆名家の関係は伊達輝宗の時まで良好でしたが、輝宗の子である伊達政宗が当主の座に就くと、途端に関係が悪化しました。
また蘆名家の家臣である二階堂家には政宗の血縁者がおり、政宗と戦う姿勢を示しておりました。
その人物は輝宗の姉で政宗の伯母にあたる阿南姫(おなみひめ)。

今回は他家に嫁ぎ、実家の伊達家に対立した阿南姫の生き様を紹介します。

二階堂家に嫁ぐ

阿南姫は天文10年(1541)に伊達晴宗の長女として生まれます。母は奥州一の美少女と評された久保姫で、どうしても久保姫を手にしたいがために争いが起きたくらいの美貌の持ち主でした。



その後、20歳にも満たない内に阿南姫は二階堂盛義(にかいどう-もりよし)の元へ嫁ぎます。この頃から二階堂家は衰退の兆しを見せ始めていたので、伊達家と強固な関係を築くためにこの縁談が成立したと考えられます。

二階堂家の勢力回復

阿南姫は永禄4年(1561)には長男・盛隆を産みます。
しかし、衰退した二階堂家に追い打ちをかけるように蘆名盛氏の侵攻にあい、敗北した盛義は永禄8年(1565)、盛隆を人質として蘆名家へ送りました。

まだ年端もいかない盛隆が人質へ行ってしまったことは阿南姫をひどく悲しませたことでしょう。

それでも阿南姫はめげることなく、元亀元年(1570)には二階堂家の次代を担う次男・行親を産みました。

そして幸運なことに、人質として蘆名家へ行っていた盛隆が17代当主の蘆名盛興の死後、盛氏(盛興の父)の養子となったことで、天正3年(1575)に蘆名家18代当主となります。

また、盛隆は蘆名家の力を用いて実家の二階堂家の勢力回復に務めたことにより、徐々に勢力回復をしていきました。

伊達政宗と対立

そんな喜ばしいことも束の間、天正9年(1581)夫の盛義が病死し、翌年には盛義の後を追うように、家督を継いでいた行親も13歳の若さで病死してしまいます。
さらに不幸は続き、天正12年(1584)には盛隆が蘆名家家臣の手によって暗殺されてしまいます。

盛義死後に尼となり大乗院と名を改めた阿南姫でしたが、父と次男の相次ぐ死によって須賀川城が城主不在となってしまったので、2人の意志を継ぐように女城主となりました。

そして、新当主である蘆名義広(阿南姫の甥)を迎えた蘆名家に攻勢を仕掛けてきた甥の伊達政宗に対立する姿勢を見せました。

二階堂家の滅亡

しかし阿南姫の覚悟空しく、天正16年(1589)に起きた摺上原の戦いで蘆名家が伊達家に敗北し、滅亡すると政宗から降伏を促されます。もちろん阿南姫は降伏することなく、政宗と戦いますが、家臣の寝返りによって総崩れとなってしまい須賀川城は落城。



二階堂家は滅亡という結果を辿ってしまいました。

甥の元を転々とする

滅亡後は母、久保姫のいる杉目城に移されますが、阿南姫は伊達家から保護を受けることを嫌ったので、阿南姫の娘・岩城御前(いわきごぜん)の旦那である岩城常隆(いわき-つねたか)、次いで甥の佐竹義宣の元へ身を寄せることになります。

そして慶長7年(1602)、義宣が関ヶ原の戦いで西軍に与したことにより秋田へ転封となり、それに伴い阿南姫も移動していた最中、阿南姫はかつて夫と息子たちと過ごした須賀川(現在の福島県須賀川市)付近で病にかかり、そのまま須賀川の地で62歳の生涯を終えました。

寄稿(拾丸)

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