上ノ郷城の解説「鵜殿氏とは?」鵜殿長照の本拠地

上ノ郷城

上ノ郷城

上ノ郷城(かみのごうじょう)は、愛知県蒲郡市神ノ郷町にある標高52m、比高15mほどの丘城。
別名は、西之郡之城、三河・宇土城鵜殿城、神ノ郷城、西郡城とも言う。

上ノ郷城

最初の築城は不明だが、一番古い伝承としては下記になる。

源頼朝のころ、紀伊新宮の別当の子が取り立てられて西ノ郡(蒲郡)を与えられたという記録がある。
蒲郡市にある勝善寺の梵鐘には、熊野別当の永範(ながのり)・行範の名が鋳られているようだ。
16代別当・長範(ながのり)の子が行範と考えられ、熊野速玉大社の社僧や神官などを束ねていた、
19代別当・行範の妻は源為義の娘・鳥居禅尼(たつたはらの女房・丹鶴)。


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行範の子は男子8人・女子6人いたとされ、1173年に行範が死去すると、鳥居禅尼は残された子の範誉、行快、範命、行遍、行詮、行増などを立派に育てたことで知られる。
また、娘の1人は、田辺別当・湛増の妻になっている。
更に、鳥居禅尼の異母弟は、以仁王の令旨を諸国の源氏に伝え歩いた源行家でもある。
そして、熊野別当は壇ノ浦の戦いなどでは源氏勢の水軍(熊野水軍)として活躍しており、鳥居禅尼や湛増は源頼朝より所領の加増を受けている。
1210年、鳥居禅尼の申し出を受け、鎌倉幕府は鳥居禅尼が持つ各地の領地の地頭職を養子に与えることが認められている。(養子の名前までは伝わっていない)

上ノ郷城

また、別の角度からの話として、平安時代末期に「五男十郎」と言う武将が、壇ノ浦の戦いでの武功により上ノ郷の領地を得て城を建てたとある。
もちろん、当時の城としては、山の上ではなく低い場所に屋敷を構えた可能性もあるが、それにしても「五男十郎」とはどのような武将だろうか?
単純に、誰かの「五男」で名前が「十郎」と呼ばれていたとも感じてしまう。
その場合、鳥居禅尼の子か養子がこの五男十郎であった可能性も捨てきれない。


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室町時代には、熊野別当の一族で南紀・新宮の鵜殿村(鵜殿城)にいた鵜殿氏(うどのし)が、その時点で所有していた荘園があった蒲郡に移住。
そして、鵜殿長善の子である鵜殿長将が上郷家となり、鵜殿長存が下郷家へと分与された。
鵜殿氏はみな「長」の字を使っているので、鳥居禅尼の養子と推測される長詮の子孫にあたるのかも?知れない。

鵜殿一族は、神ノ郷・下ノ郷・不相・柏原へと分かれている。
鵜殿長善は今川家に仕えるようになり、その子・鵜殿長持(うどの ながもち)は、今川氏親の娘(今川義元の妹)を正室に迎えた。
これにより鵜殿氏は今川一門扱いとなり、今川勢としては西の備えとして期待された。

鵜殿長照

鵜殿長照(うどの ながてる)は戦国時代の武将で鵜殿長持と今川氏親の娘との間に生まれたが生年は不詳。
父・鵜殿長持は1557年死去説、1562年死去説と諸説あるが、いずれにせよ家督を継ぐ立場であったのは間違いない。
1560年、織田信長との桶狭間の戦いで、まず鵜殿勢は大高城を奪取した。
しかし、織田勢は丸根砦鷲津砦などを築いて補給路を断ったため、鵜殿長照らは草木の実を食べて飢えを凌いだと伝わる。
その後、松平元康(徳川家康)の部隊が大高城に兵糧を入れると、守備は鵜殿勢と交代となった。
そして、今川義元が討死すると鵜殿長照らは上ノ郷城(西之郡之城)に戻っている。


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今川氏真は、三河を事実上捨てて、徳川家康が三河・岡崎城に復帰。
鵜殿氏の宗家・鵜殿長照は、母が今川義元の妹であったこともあり引き続き今川氏に従ったが、下ノ郷城(蒲形城)など他の鵜殿一族は徳川家康の傘下に入っている。

松平元康(徳川家康)が三河統一を進める過程で、1562年に名取山に本陣を置き、松平清宗久松俊勝などが上ノ郷城を攻撃して陥落された。
松井忠次は伊賀・甲賀の忍者(伴与七郎など)を駆使して城に火をつけ、久松俊勝らにより鵜殿長照は討死。(伴与七郎が討ち取ったとも)
子の鵜殿氏長鵜殿氏次は捕らえられたが、駿河にて今川氏真の人質となっていた徳川家康の妻・瀬名姫(築山殿)と嫡男・松平信康、長女・亀姫らとの徳川家・今川家の間での人質交換に使われた。
鵜殿氏長・鵜殿氏次の兄弟は、遠江・二俣城の松井宗恒が預かっている。
また、鵜殿長持の娘・西郡局(にしのこおりのつぼね) は徳川家康の側室となり、1565年に督姫を産んでいる。

1568年、徳川家康は曳馬城を攻撃。
このとき、曳馬城を守備したのは、亡き飯尾連竜の妻であった鵜殿長持の娘・お田鶴の方であった。
また、徳川家康が二俣城を攻撃した際に鵜殿氏長・鵜殿氏次は徳川家に降伏している。
鵜殿氏次は江戸時代1700石の旗本として存続。
鵜殿氏次は、1600年、伏見城の戦いにて、鳥居元忠、内藤家長、松平家忠らと討死した。


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話を戻すが、鵜殿氏のあとには坂部城の久松俊勝が上ノ郷城を領した。
継室・於大の方との間に生まれた次子・松平康元が上ノ郷城主となり、1590年、徳川家康が江戸城に移封となると、三河・吉田城主になった池田輝政の所領となった。

交通アクセス

上ノ郷城への行き方ですが、電車の場合、JR東海道本線の蒲郡駅から徒歩45分。
タクシー利用が良いでしょう。
クルマの場合、赤日子神社から西側にある駐車場に、案内板とパンフレットがあり、上ノ郷城への徒歩ルートの道標も出ている。

駐車場の場所は、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

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