横浜にもある「浦島太郎伝説」玉手箱をもらって開けた場所は横浜なの?考察

浦島太郎伝説

浦島観音堂

横浜にも浦島太郎伝説があると言う事で、浦島観音堂(うらしまかんのんどう)を訪問して参りました。
場所は、神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町で、JR京浜東北線や京急の東神奈川駅から徒歩6分くらいの場所となります。
現在は京急の線路とJR線の線路に挟まれていますが、かつては海に面していたのでしょう。
浄土宗の寺院・慶運寺の境内に浦島観音堂が建てられています。

慶運寺

慶運寺は、室町時代の文安4年(1447年)創建。
幕末に横浜が開港されるとフランス領事館が置かれました。

慶運寺

神奈川宿では外国人の宿舎になるのが嫌で、屋根を壊して「工事中」にした寺院もあったと聞きますが、慶運寺は受け入れたようです。


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ただし、最初からこの場所が横浜の浦島伝説地と言う事ではなく、実際の浦島太郎は京急・子安駅の西側にあった観福寿寺(浦島寺)だとの事。
その観福寿寺は歸國山・浦島院(帰国山・浦島院)と言い、山号が「帰国山」なので、浦島太郎感たっぷりだったようです。
でも浦島寺は江戸末期1868年の神奈川宿火災と明治の廃仏毀釈の影響もあり、1872年に廃寺になりました。
そのため、慶運寺が浦島観音などを引き継ぎだと言います。

慶運寺

その龍宮にてもらってきたと言う伝来の浦島観音像は、浦島観音堂に安置されていて、浦島大明神立像・亀化龍女神立像と共に12年ごとの子年(ねずみどし)にご開帳されるとの事。
次回は2032年になりそうです。

横浜の浦島太郎伝説

日本各地の海辺を訪問しますと、あちこちで浦島太郎の伝説があります。
横浜での浦島太郎伝説を総合すると下記の通りになります。

雄略天皇の時代(古墳時代457年~479年)、相模国三浦出身の浦島太夫は朝廷から大裡という役を与えられ、一家で丹後国へ移住した。
浦島太夫には、浦島太郎重長という子がいた。
ある日、浦島太郎が舟で釣りをしていると、五色に輝く大きな亀を釣り上げた。
その船の上で居眠りをしていると、その亀は美女(乙姫)に変化し、太郎は乙姫に連れられて竜宮城に行って歓待を受けた。
竜宮城で3年過ごすと、父母のことが恋しくなった太郎は暇を乞い、乙姫から玉手箱と観音像を授けられて丹後へと戻る。
しかし、父母も知人も見当たらない。
困惑した浦島太郎が観音像に祈ると、夢の中で「故郷の三浦半島へ、我を背負って下れ」とのお告げを受けた。
浦島太郎は、観音像を背負い、玉手箱を抱いて関東へと向かった。
三浦半島に戻った太郎は、太夫の9代後の子孫に会い、浦島太郎の父母は300年前に武蔵国白幡(白幡の峰)に葬られているということを聞いて、300年もの間竜宮城にいたことを知るのであった。

浦島太郎は、父母の菩提を弔って小堂を建てて観音像と玉手箱を奉納すると、浜辺から何処ともなく消え去っていった。
天長2年(825年)のことであった。

その後の天長7年(830年)7月7日、浦島太郎と乙姫が霊亀に乗って海に現れ「われら人々の願いを受けて観音像を守護する」という言葉を残して消えていった。
人々は、太郎の建てた小堂を立派な寺院として建て直し、太郎を浦島大明神、乙姫を亀化龍女神として像を造り、観音像とともに信仰した。

面白いですね。
玉手箱を開けたとは記述されていませんが、300年もあとになって帰った最終地点が横浜(東神奈川)と言う事になっています。

横浜の浦島太郎伝説を検証

日本全国を周っていてみかける浦島太郎伝説は、基本的に海がキレイな砂浜などに多いです。
沖縄にも伝承があるくらいですが、一番有名なのは京都府伊根町、丹後半島の先端に近いの浦嶋神社(宇良神社)になるでしょう。
丹後国風土記にも、雄略天皇の時代に嶼子(島子)がひとりで船で海に出るが、3日間魚は釣れず、五色の亀が取れたとあります。
そして、船で寝入る間に亀は美女の姿に変わったとしています。
日本書紀では、雄略天皇22年(478年)に丹波国餘社郡(京都府与謝郡)の住人である浦嶋子が舟に乗って釣りに出たが、捕らえたのは大亀であったとあります。
その大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀を妻にすると、二人は海中に入って蓬萊山(とこよのくに)へ赴いたとされます。


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横浜の特徴としては浦島太郎の出自に関して父は三浦半島出身としています。
三浦と聞くと安易に三浦党(三浦氏)を想像してしまいますが、三浦氏が登場するのは平安時代の中期ですので、浦島太郎伝説はもっと前の時代の話となります。
古墳時代の象徴として、逗子に長柄桜山古墳群(ながえさくらやまこふんぐん)もありますので、当時から三浦にも権力者がいたのは間違いないでしょう。
ただし、三浦氏に関しては、なんと「浦島太郎」と酒を飲み交わしたと言う話もあります。
詳しくは下記にて。

衣笠城の解説【衣笠城の戦い】浦島太郎と酒を飲み交わした?三浦義明

大裡(だいり)の仕事についたと言う下りですが、大裡はすなわち「内裏」(だいり)と言う朝廷でも天皇が住居を中心にした御所のことを言います。
そのため、仕事についた言うよりは、内裏で仕事をすることになったと言う事だったのかも知れません。
そのためか、また三浦から丹後に移ったと言う事から、朝廷から派遣されていた豪族・貴族関連の人物であった可能性が高いでしょう。
一般庶民は、そんな遠いところに簡単に移り住みませんのでね。
芸能に優れた者が太夫(たゆう)と呼ばれますので、神職として儀式に伴う芸能をつかさどっていたと推測できます。

ちなみに、645年大化の改新で、はじめて「相模国」ができました。
それより以前はの神奈川県東部は「相武国」と呼ばれており、初代・相武国造としては出雲氏の一族とされる弟武彦命が知られます。
浦島太郎がいたのは、それから後の時代となりますが、古事記では「鎌倉別」と言う勢力も見受けられるため、三浦半島は鎌倉別の支配下であったとも推測できます。
もしかしたら、浦島太郎はこの鎌倉別の一族であったかも知れません。


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白幡の峰と言う場所ですが、綱島街道の脇・浦島丘中学校付近であった推測されます。
浦島丘に大正時代に移転してきた蓮法寺に浦島太郎伝説があります。

ただ、浦島太郎の話は、古くから中国に伝わる竜宮の話など日本に伝わり創作された物語だと感じます。(スイマセン、浪漫がないことを申しました)

慶運寺への交通アクセス

慶運寺への行き方・交通アクセスですが、東神奈川駅から徒歩6分くらいになります。
駐車場は無いようですので、近隣のコインパーキングを利用したほうが無難なようです。
慶運寺の当方のオリジナル関東地図にてポイントしています。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

神奈川県は他にも金太郎の本命ともされ、古くから様々な伝承もございます。

衣笠城の解説【衣笠城の戦い】浦島太郎と酒を飲み交わした?三浦義明
金太郎の解説 実際の金太郎「坂田金時」とは?

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