細川藤賢の解説 足利義昭に仕えた奉公衆

細川藤賢

細川藤賢(ほそかわ-ふじかた)は、戦国時代の武将で、1517年に室町幕府の将軍・御供衆である細川尹賢(細川典厩家尹賢)の子として生まれました。
母は不詳です。
細川藤賢は、細川氏庶家の典厩家として堀城(摂津・中嶋城)主であり、1565年、室町幕府将軍・足利義輝が、三好三人衆らによって殺害されたあとは、松永久秀に従っています。

足利義昭織田信長や松永久秀らによって、上洛を果たし、15代将軍になると、以後は、足利義昭に仕えました。
織田信長が二条城を築城する際は、細川藤賢の屋敷にあった「藤戸石」という、庭の石、織田信長の命にて移しています。


スポンサーリンク



天正元年(1573年)、足利義昭が織田信長に反旗を翻そうとした際には、将軍を説得しましたが、聞き入れられず、やむを得ず、挙兵に従っています。
1575年、高屋城の戦いにて、居城の摂津・中嶋城も焼失。
足利義昭は、追放されて鞆の浦に移りましたが、細川藤賢は細川藤孝ともども、織田信長に許されています。
天正9年(1581年)、織田勢の京都御馬揃えにも、旧公方衆として参加しました。

1582年、明智光秀本能寺の変にて、織田信長が横死したあとは、豊臣秀吉に仕えました。
天正18年(1590年)、細川藤賢は京都にて死去。享年74。

子らは、戦国諸侯に招かれながら細川元賢(もとかた)、細川重賢(しげかた)、細川乗賢(のりかた)と続き、金沢藩士(前田家の家臣)として幕末に至っています。

細川晴元~名門・細川吉兆家の血筋ゆえに覇権争いの波乱万丈の生涯
松永久秀~乱世の梟雄・稀代の謀略家にして初めて爆死した日本人?
足利義昭とは 外交手腕に優れた最後の室町幕府将軍

フィードバックする
スポンサーリンク
スポンサーリンク

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。