北条時宗~蒙古帝国からの懐柔を阻止した鎌倉幕府・第8代執権

北条時宗~蒙古帝国からの懐柔を阻止した鎌倉幕府・第8代執権

元寇(蒙古襲来)といえば鎌倉時代にモンゴル帝国によって【文栄の役】・【弘安の役】の二度に渡り日本侵略が行われたものの、暴風雨「神風」によってそれが阻まれたという認識をもっている方も多いことだろう。
もちろん蒙古襲来の際に博多湾を暴風雨が襲ったことは事実ではあるが、その暴風雨だけでモンゴル帝国の侵略を阻止したというのは真実ではない。
何故、モンゴル帝国は武力による日本侵略に乗り出したのか、そして時の執権・北条時宗が蒙古の襲来にどのような対策を用いたのか。今回は元寇と北条時宗の政策の真相について迫ってみたい。



北条時宗 ほうじょう・ときむね 

1284年6月5日(建長3年5月15日)~1284年4月20日(弘安7年4月4日)・満32歳没。
鎌倉幕府・第8代執権。
文栄元年8月、時宗は14歳にして第7代執権・北条政村の補佐(連署)に就任。
文栄5年3月5日、政村より執権職を継承。18歳にして鎌倉幕府・第8代執権に就任する。

フビライ・ハンからの国書と時宗の対応

文栄5年(1268年)1月8日、モンゴル帝国皇帝・フビライ・ハン(クビライ・ハーン)より国交を結ぶための国書が幕府に届く。国書の内容は友好関係を結ぶためのもののように綴られていたが、その末尾には要求に応じなければ軍事力に訴えることも辞さないといった脅し文句も記されてあった。フビライ・ハンからすれば、日本国土から産出される資源を手に入れたいという思惑があったのだ。

フビライの目的が日本の従属にあることは明らかであり、幕府は対応を協議することとなる。鎌倉幕府執権に就任したばかりの北条時宗はフビライの意図を察し、その要求を拒否することを決断。国書に対する返答をしなかった。その後も数度、フビライから国交を迫る国書が送られるがいずれもそれを拒否している。

時宗はモンゴル帝国との戦争に備え、国内の武力の整備と統率、そして防衛策を講じる必要に迫られるのであった。

二月騒動

強大な国力を誇るモンゴル帝国からの度々の国交要求に対し、朝廷では国交を結ぶ案が浮上していた。徹底抗戦を主張する幕府・武士であったが、朝廷の公卿たちはモンゴル帝国の圧倒的な国力に好意を示したのだ。
時宗はその朝廷の意向に真っ向より反対する。

しかし、この朝廷の動きに時宗の異母兄である北条時輔が同調する。時輔は時宗を失墜させ、自らの権力を欲する陰謀を企てたのである。その陰謀をいち早く察知した時宗は、時輔や陰謀に加担した反勢力を討伐し一掃した。

こういった混乱により、迫りつつあるモンゴル帝国の脅威に対する防衛策は思うように進まなかったといえるだろう。

文栄の役

日本懐柔に失敗したフビライはついに軍事力による日本制圧を決断。1274年(文栄11年3月)帝国軍に日本侵攻を命じたのだった。
蒙古帝国軍の兵力は2万7千・軍船900隻。まず対馬・壱岐を蹂躙し島民までを襲い制圧していった。その後船団は博多に向かう。文栄11年10月20日、蒙古軍は博多湾に襲来。博多で迎え撃つ幕府軍は兵力は3000騎。蒙古軍との兵力差は歴然であった。上陸した蒙古兵は銅鑼を打ち鳴らし迫ってきた。圧倒的兵力差と新鋭兵器の前に、武士たちは為す術もなく退却を余儀なくされる。博多に侵入した蒙古兵たちは町に火をかけていった。退却した武士たちは全滅を覚悟したという。

ところが、あくる10月21日の朝には博多湾に大挙して押し寄せていた蒙古軍の船団の姿が消え失せていたのだ。なんと博多に先制の攻撃を仕掛けた後、1日で撤退していたのだった。一説によれば、第1次蒙古襲来(文栄の役)は幕府に対する威嚇のための軍事行動であったといわれている。フビライからしてみれば、敵国を脅し恐怖によって従わせることで戦わずして懐柔することができる。つまり自国の兵の損害も少なくて済むという狙いもあったに違いない。
また、神風説については蒙古軍が日本から撤退する途中で台風の被害があったともされる。



この知らせを受けた時宗は、蒙古帝国の脅威に愕然としたという。
もし、蒙古軍が撤退せず進軍していれば間違いなく博多は占領されていたであろう。

時宗の決断

文栄の役での戦闘で、フビライは日本がモンゴル帝国に服従すると考えた。1275年(文栄12年2月9日)、フビライは再び国交を結ぶための国書を使者と共に日本に送った。
時宗は決断に迫られる。フビライの要求に応じるのか、それとも徹底抗戦か。もしここでフビライの思惑通り、モンゴル帝国の圧倒的軍事力の前に屈服すれば、日本全土が蹂躙され支配下に置かれることだろう。
幕府執権・北条時宗にとってそれは許されざることであった。

時宗はモンゴルからの使者を処刑するよう命じた。

そして、再び襲来してくるであろう蒙古軍への防衛対策に乗り出したのであった。
まず、博多湾に敵の侵入を防ぐための石の防塁(石垣)築かせた。博多湾沿岸に築いた防塁の総延長は20㎞におよんだ。そして蒙古軍の応戦に際し、武士だけではなく農民などにも参戦し武勲をあげた者には恩賞を与えることを約束し、戦力を増員していった。
さらに、モンゴルに対する徹底した情報収集も行い、蒙古軍が次に襲来してくる日程の情報などを得ることに成功した。

弘安の役

弘安4年(1281年)5月3日、蒙古軍は博多に向けて再び出撃。その兵力は二手に分け東路軍4万・軍船900隻、江南軍10万・軍船3,500隻、計14万という超大兵力であった。
最初に博多湾に到着したのは東路軍4万だった。しかし、博多湾沿岸に築かれた防塁に上陸を阻まれることとなる。そこで幕府軍は小舟で蒙古船に近づき攻撃を開始。虚を突かれた蒙古軍は混乱し一時撤退を余儀なくされる。統率を乱した蒙古船団は近海の各地に分散し、そこへ幕府軍が追い打ちをかける。海上での戦いに不慣れな蒙古軍に大きな損害を与えることに成功した。

蒙古軍は立て直しを図るため、壱岐の海域まで戦線を後退させる。そこで江南軍10万が到着するのを待った。江南軍と合流し、一気に攻勢に出る算段であった。しかし、江南軍はいっこうにあらわれない。東路軍が江南軍の到着を待って1ヶ月が経過。江南軍の姿はいまだに見えない。季節は夏。船内では疫病が蔓延し兵糧も尽きようとしていた。3000もの兵が失われたとされている。



蒙古軍の指揮官たちは協議するが、撤退を主張する者と日本攻略を主張する者とでまとまらなかった。そのまま江南軍の到着を待つ以外になかった。

弘安4年7月、ついに江南軍到着の知らせが東路軍に届く。合流した蒙古軍は超大兵力をもって博多湾に進軍する。

圧倒的な戦力で迫りくる蒙古軍。徹底的な防衛対策を用いて応戦する幕府軍であったが、この超大兵力の前にはもはや打つ手なしかに思われた。迫りくる蒙古軍。万事休す、しかし、まさにその時であった。

博多湾に神風が吹いたのだった。台風による暴風雨が蒙古船団を襲ったのだ。さらに混乱する蒙古船団に幕府軍が総攻撃を仕掛ける。これによって蒙古軍は壊滅。

日本がモンゴル帝国からの脅威から救われた瞬間である。確かに結果的には神風に救われたことに違いない。しかしながら、台風が到来する時期にまで日本が持ちこたえたことが勝因でもある。それは時宗が行った防塁の築造やさまざまな防御対策が功を奏したことに他ならない。



時宗の最期

その後、時宗は元寇による事後処理や今後の蒙古襲来に備えた国防などの対応に追われていた。そして1284年(弘安7年4月4日)、病床にあった時宗は34歳(満32歳)でこの世を去った。
亡骸は弘安の役の後、日本・モンゴルの戦死者を供養するために自らが建立した鎌倉の円覚寺の境内に葬られた。
もし北条時宗という鎌倉幕府執権がいなければ、日本はモンゴルによって懐柔され、現在の日本とはまた違った世になっていたのかもしれない。

(寄稿)探偵N

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