時国家(本家・上時国家)能登に流刑となった平時忠の子孫

上時国家

時国家とは

時国家(ときくに-け)は、石川県輪島市町野町の旧家の屋敷です。
上時国家(本家)は、 建物が国の重要文化財、庭園は国の名勝に指定されており、有料公開されています。

時国家の租は、平安時代末期の公家である平時忠(平大納言時忠)と伝わります。
平時忠(たいら-の-ときただ)は「平家にあらずんば人にあらず」と述べたことで、よく知らせれる武将です。


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1181年、平清盛が死去すると、平家の棟梁には平宗盛が就任します。
しかし、後白河法皇の院政が強まり平氏は追いやられて行きます。
1183年1月に、平時忠は正二位・権大納言となっています。
ただし、5月、平氏の北陸追討軍は、倶利伽羅峠の戦いにて木曾義仲に大敗し、以後、軍事力が低下しました。
平氏は、京の都から落ちて、元暦2年(1185年)、壇ノ浦の戦いにて、平氏は滅亡します。
この時、平時忠は壇ノ浦で捕虜となって、源義経に引き渡されました。
そして、建礼門院に別れの挨拶をして、能登に流刑になったと言う事です。
珠洲市大谷に、仮の小屋を建てて住んだと言いますが、当時の能登守は松殿基房で、その寵臣・藤原顕家より、丁寧に遇されたとあります。
また、源義経が奥州へ逃れる際に、諸説ありますが、能登を経由したと言う説もあり、義経の舟隠し岩などが見受けられ、その場合、平時忠を頼った可能性もあります。
平時忠は、1189年に能登で死去しました。
ゴジラ岩から南に入ったところに、平時忠の墓があります。


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母は不詳(能登の女性?)ですが、平時国と言う子がいて、その平時国の末裔が、能登で豪農となり(上時国家・下時国家)と分かれたと言う事になります。

上時国家(本家)と、下時国家(分家)に分かれたのは、江戸初期の寛永(1624年~1644年)とされます。
能登・石崎藩の領主であった土方氏と、加賀100万石の前田氏による、能登の支配強化が背景にあったようで、分家が起こったと推測されているようですが、下時国家が加賀藩に味方した形となります。
恐らく、分家したのは、苦肉の策だったのでしょう。

上時国家

上時国家の屋敷は、江戸後期の建物と推定され,入母屋(いりもや)造で、茅葺(かやぶき)の屋根になっており、鎌倉時代の様式を伝えます。

上時国家

なお、上時国家は、300石の豪農として天領大庄屋を務めており、屋敷の建築には28年かかったと言う伝承もあります。
300石ともなると、ほんと、かなり立派で、大きな建物です。

上時国家

上時国家の鎌倉風の池泉回遊式庭園は、前述したとおり、国の名勝に指定されています。

上時国家の庭園

近くには「下時国家」の屋敷もあります。
ただ、訪問時には修復中で閉まっていて、内部の見学は、かないませんでした。

下時国家

交通アクセス

上時国家、下時国家への交通アクセス・行き方ですが、バスの場合、輪島駅ふらっと訪夢から、北鉄バスの宇出津行きに乗車して、下時国バス停にて下車となります。
能登空港からは、レンタカーで約40分、無料駐車場完備です。
上時国家と下時国家は、隣接していませんが、車で1分の距離です。

2024年1月1日の能登半島地震にて、時国家の建物にも被害が出た模様です。
地震にてお亡くなりになられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災されました皆様に心からお見舞い申し上げます。
また、被災者の救済と被災地の復興支援のためにご尽力されている方々に深く敬意を表します。
能登の皆様の安全と、一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

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