雑賀孫市(鈴木孫一) 鈴木重秀・鈴木重朝

雑賀孫市(鈴木孫一) 鈴木重秀・鈴木重朝

雑賀孫市(さいか まごいち)は、鈴木孫一(すずき まごいち)と言う雑賀衆の頭領で紀州・雑賀城主である戦国武将ですが、正式な名前は鈴木重秀と考えられています。
雑賀衆は、地域の職人などの小さな集まりで構成された協同組合のような武装集団で、場合によってはお金で動く傭兵集団でもありました。
本願寺門徒の勢力が強い紀ノ川の下流域が本拠で、特に石山本願寺での戦い「石山合戦」では、鉄砲が得意な雑賀衆を率いて本願寺顕如に味方し、織田信長を苦しめました。
荒木村重有岡城にて籠城した際にも加勢しましたが、本願寺が屈すると織田家と講和しています。
本能寺の変のあとは、豊臣秀吉に臣従しと、鉄砲大将として活躍しました。
1590年には忍城の戦い、1600年、伏見城の戦いでは、徳川家康の重臣・鳥居元忠を討ち取っています。
ただし、この頃活躍していた雑賀孫市は、鈴木重秀の跡を継いだ、鈴木重朝だと推定されています。
関ケ原の戦いで所領を失い浪人すると、伊達政宗に仕え、その後、1606年に徳川家康に3000石で直臣(旗本)となりました。
のち、水戸徳川家に移ると、徳川頼房の家臣となり水戸藩士となりますが、鈴木重朝(鈴木孫三郎)の子である鈴木重次も、雑賀孫市と代々称しています。
なお、伏見城で雑賀勢に討たれた鳥居元忠の次男・鳥居忠政も水戸藩士となっており、鈴木重次が戦利品だった鳥居元忠の甲冑と刀剣を返却しましたが、のち「やはり鈴木家の家宝に」と贈り、同じ大番頭の仕事で、毎日顔を合わして職務に励んだと言います。
雑賀家の家紋は「八咫烏」です。

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コメント

  1. まぁ鈴木家の一門だし

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