三条西実条とは 江戸幕府との武家伝奏を務めた公卿

三条西実条

三条西実条(さんじょうにし-さねえだ)は、戦国時代から江戸時代初期の公卿で、1575年に内大臣・三条西公国の長男として生まれました。
母の名前は不詳です。
若くして侍従を務めたあと、1597年には参議となりました。
細川幽斎からは古今伝授も受けています。

1600年、関ケ原合戦の前に、細川幽斎が丹後・田辺城にて籠城し、石田三成らの西軍が包囲した際には、後陽成天皇の勅書を携えて、丹後まで下向しています。



関ヶ原の戦いを制した徳川家康が江戸幕府を開くと、1613年から武家伝奏になっています。
武家伝奏(ぶけてんそう)と言うのは、朝廷と幕府のやり取り・交渉における、朝廷側の役職(代表者)で、定員は2名で、もう一人は中院通村と同じような時期です。
幕府側としては京都所司代などが務めていますが、重要事項は、武家伝奏が江戸城を直接訪問することもありました。
三条西実条は学問も優れていて、弁舌であるため、選出されたのでしょう。
更には、本能寺の変を起こした明智光秀の重臣である斎藤利三の娘・春日局が、若い頃に三条西家で養育を受けていた縁からも、起用されたものと考えます。



1623年、徳川3代将軍の徳川家光が、将軍宣下に際しての上卿(天皇からの宣旨を伝える役)を、三条西実条が務めています。

1629年、お福(春日局)が病中である徳川家光の代理で上洛すると、御所へ昇殿する資格がなかったため、内大臣になっていた三条西実条は、義理の妹(猶妹)として縁組を行いました。
そのため、春日局は、三条西家の女性との立場にて、無事に後水尾天皇と拝謁しています。
しかし、このようなやり方に怒った後水尾天皇は、2女・興子内親王(明正天皇)に譲位し、幕府との対立を深める結果にもなりました。



1635年、従一位となり、1640年には徳川家光の執奏により、三条西家としては異例の右大臣となっています。
しかし、数ヶ月後には辞退し、三条西実条は武家伝奏のまま薨去しました。享年66。
家集に「三条西実条詠草」、著書に「詠歌聞書」があります。

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