明治国家を先取りした藩政改革を成し遂げた経綸の天才【津田出】

津田出

津田出

 江戸幕末と明治初期の政局混迷を極める紀州藩において、同藩の中級藩士に過ぎなかった『津田出(通称:又太郎、号:芝山) 1832~1905』という経綸の天才という人物像、そして彼が断行した近代国家(明治新政府)を先取りする藩政改革の内容について2回にも及び記述させて頂きました。

津田出の改革とは~明治国家を先取りした紀州藩の大改革を断行した「経綸の天才」 など

今記事を含めれば3回目となってしまったのですが、これで津田出が取り組んだ革新的な藩政改革については今記事で最終になると思います。長々とお読み下さいました読者様には、心から御礼を申し上げます。


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 前回の記事では、津田出が「禄制」「身分制」「軍制」などの大改革を断行したことについて主に紹介させて頂きましたが、今記事では、前回紹介しきれなかった⓵『殖産興業』⓶『学校・病院の設立』、そして紀州藩の藩政改革の最大功績者である⓷『津田出の晩年』について紹介してゆきたいと思います。

⓵『殖産興業』について:開物局の創設。他産業で活路を見出す失業士族たち。

 津田出が紀州藩主・徳川茂承の抜擢により、大断行した藩政改革の基本理念として、交代兵制度や西洋式軍隊を確立する『武備充実』、そして『利世安民 天下弘済』(経国論)でありました。
 国家と国民の命運と財産を護るために軍事力と国防が存在するはずであるのに、殖産や撫民を等閑(なおざり)に付して武備増強に傾倒し、逆に国家財政や民衆を圧迫するというは本末転倒な滑稽話であります。即ち、相応の軍備や兵力を持つには、それを揃え養える国家財政(カネ)と民力(ヒト)の2つが必要となってくるのであります。カネとヒトを併せて、世に言う『経済力』であります。これは軍事のみに通じる話ではなく、我々現代人の普段の生活や仕事でも必要不可欠なものであり、皆様もよくご存知だと思います。
 津田出が、門閥主義の封建制身分を解体し、紀州藩の兵制改革を断行、軍備増強を行った同時に、その莫大な費用を賄うために、民政と財政(即ち『利世安民 天下弘済』)を充実させるために政治体制をも刷新したのであります。それが近代政府を先取りした政治機構、政治府・民政局・軍務局・刑法局・会計局・公用局の1府5局を紀州藩で創設したことであります。
 1府5局を政治の中心とし政治・軍備の充実を図り、そして実現した津田出でありますが、紀州藩の懐を潤すための利殖機関、金の卵を産むニワトリの羽数を増やすことも出は考えていました。それが『開物局』(現在の経済産業省相当)の創設であります。『諸産業を興す』ということは、古今東西を問わず国を発展繁栄させるには最重要項目であることですが、津田出はこの経済産業を興す政治機関を創設することによって、紀州藩内の殖産興業を行い、歳入を殖やすこと考えたのです。
 『開物局』を創設。と筆者は軽々と書いてしまいましたが、開物局は1府5局が創設された同年の1869(明治2)年に開かれたことは間違いないのですが、それならば何故、1府5局ではなく、『1府6局』とならないのか?これは今もって判明しないのであります。因みに、『1府5局』という熟語を初めて見つけたのが、早稲田大学名誉教授であられた政治史ご専門の木村時夫先生がお書きになられた論文『明治初年における和歌山藩の兵制改革について』の文中内からであります。


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 筆者が津田出という隠れた『天才的な経綸家』や出が考案した開物局という存在を最初に知ったのは、やはり司馬遼太郎先生の著作『「明治」という国家 新装版』(NHKブックス)を読んでからであります。
 その後、津田出と彼の藩政改革(特に開物局の詳細)について更に知識を深めようと、インターネット上で調べてみたのですが、開物局の存在について書かれてあるのが、津田出の小伝『壺碑』(津田道太郎 著)と、紀州徳川家の公式記録というべき『南紀徳川史』(第12巻)であります。
 南紀徳川史では、1869(明治2)年10月、即ち政治府と5局が創設された同年同月に開物局も置かれているのですが、旧態紀州藩政期に藩内の物産を江戸や大坂などに輸出管理する部署・御仕入方(産物方)が開物局の原型となっていることが書かれてあります。
 表面上の紀州藩は、徳川御三家の1つであり表高55万石という大藩でありますが、地理的に平野部が少なく山岳地帯が多い同藩は米穀の穫高が低く、年貢米収入も表高よりも低かったと言われています。徳川総本家(江戸幕府)の天領の年貢率は4割、即ち「四公六民」で有名ですが、対して紀州藩の年貢率は8割、八公二民という桁外れの高さでした。それほど米を徴収しなければ紀州藩は、名門大名の体裁を保ってゆく経費(前掲の磯田道史先生が言う所の「身分費用」)を捻出するのが困難であったのです。
 余談ですが、この様な米穀生産に不向きな地理的環境であったからこそ紀州藩では、それを克服するために、江戸中期には徳川吉宗(5代藩主、後に江戸幕府8代将軍)や徳川治貞(9代藩主)といった藩政改革に積極的な明主が登場し、藩内でもそれを担える人材も育まれ藩財政を立て直した事が出来たのであります。その事を鑑みると、江戸幕末の津田出主導の藩政改革、それを通り越して藩政革命というべきものを抵抗がありながらも受け入れる素地が完成していたのかもしれません。
 いずれにしても土地柄よろしくない紀州藩では、農業以外の産物を量産して江戸や大坂で売り捌き現金収入を得ることが必要不可欠でありました。そこで最も利潤を挙げたのが木材であります。即ち林業でありますが、先述のように、水田開発に不向きな山岳地を藩領とする紀州藩は、その地理的悪条件を逆手に取って林業に力を入れたのです。
 その紀州藩林業で大成功した人物が、江戸中期(元禄)の紀州出身の豪商・紀伊国屋文左衛門(紀文大尽)であり、彼は大量の紀州産木材(蜜柑ではありません)を火事災害で悩まされている江戸へ輸送販売することで、巨万の富を一代で築き上げたことは有名であり、また紀伊国屋文左衛門とほぼ同時期には、紀州田辺で炭問屋を商う備中屋長左衛門という人物が、炭火焼として現在でも著名な「備長炭」を開発しています。
 紀伊国屋文左衛門や備中屋長左衛門の成功例も諸説があり釈然としない部分もあることは否めませんが、これも林業が盛んであった紀州藩だからこそ誕生した事例でしょう。
 この紀州藩の特産であった材木(林産業)を奨励および管理するために産物方を置き、紀ノ川流域や紀州藩領であった南伊勢の山村に住まう民衆に保護措置を採った上で、林業を推奨したのであります。これが津田出の藩政改革で誕生した開物局の原点となっています。
 開物局について最も短く解かりやすく書いてあるだろうと思うのが、津田出の小伝『壺碑』であり、以下のように書かれてあります。

『四民の職業を自由にして商工業を勧め開物局を置き、工商の其資に乏しき者に資本を貸して之を奨励した。(以下略)』


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 上記を読んでみる限りでは、開物局は『就職の斡旋』『開業資金の融資』を行っているので、敢えて現代感覚で譬えるなら、市町村役所の産業促進・職業安定所・信用金庫を兼任する部署であります。
 紀州藩の藩政改革責任者である津田出が、士農工商(四民)の封建制身分を解体した上、身分不問の能力本位による人材登用を行い、有能な人材は1府5局や軍隊の役職に就任できるようになりましたが、人選に漏れてしまう残念な人物たちもやはり出てきてしまうものであります。
 悲しい哉、それが能力主義の宿命である!と言えばそれまでなのですが、寧ろ能力的に「中」あるいは「下」に分類されてしまう人々の方が、上の人より圧倒的に多く存在しているが世間というものであり、これは現代でも、津田出らが生きた江戸幕末や明治期でも不変な理です。
 江戸幕末では、四民の中でも、各分野で技巧と生産能力を持ち、自力で日々の糧を得ている農商工は兎も角、一番問題だったのは最高位である武士/士族であります。
 農商工も兼務していた鎌倉期~戦国期までの武士なれば、生産収入などがあったのですが、幕藩体制/封建制の完熟期の武士層は、幕府や藩のみに仕え、そこから禄(給与)のみを頂戴するサラリーマン武士であり、日々の食糧生産や生活道具一式製造も、他の三民に依存する純消費者層でありました。
 この江戸幕藩体制の仕組みも、元を辿れば戦国期の英雄・織田信長が織田軍の兵力とその機動力を増強のために、当時農業も兼務していた配下の武士団を、農業や農村から分離させ武士専一化させる有名な政策『兵農分離』が発端となっており、これを次代の豊臣秀吉が受け継ぎ本格化され、更に徳川幕府によって幕藩体制として完成され、殆どの諸藩にも踏襲されたのであります。

 『だから武士は弱くなったのだ』と憤慨して言ったのは、名門・備前岡山藩(池田藩)に仕えたこともある江戸前期の陽明学者・熊沢蕃山でありますが、農村や農作業から離れて城下町で平穏に暮らす武士、即ち兵農分離を蕃山は徹底的に批判しています。

 人物評について非常に喧しいので有名な勝海舟をして『儒服を着た英雄』(氷川清話)と評された江戸前期の熊沢蕃山が懸念した如く、幕府や藩が瓦解してしまった江戸幕末の動乱期になると、農商工の諸産業と馴染みが薄くなっていた幕府官僚や諸藩のサラリーマン武士らは、代々安泰であった世襲身分を剥奪されるなど体面を潰された上、ただでさえ少なかった収入(家禄)までも無くなるという経済的にも、更に追い込まれることになったのであります。
 江戸幕末における武士層の困窮状態、更に動乱変革期の時流に乗り切れず脱落してゆく武士(藩士)の末路は、筆者が尊敬している磯田道史先生の名著『武士の家計簿』(新潮新書)で、鮮明に書かれてあります。
 勿論、当時の紀州藩に仕える数多の藩士も困窮の極みにあり、同藩の津田出ら藩政改革幹部は、彼らを救済するために、経済的には最低限の生活を送れるほど固定給「無役高」(元来の家禄10分の1の扶持米を支給)を定めた上、将来の生活向上に備えて開物局を設置。同局は紀州藩領内の各郡に設置されていた民政局、藩全体の財政を司る会計局と連携して、西洋から導入されていた農商工などのノウハウを旧士族含める領民に学ばせ、開業資金を提供したのであります。
 紀州藩の経済産業省というべき開物局が1869(明治2)年開設され、藩内に殖産興業の機運が高まったことにより、同年には藩と地元商人の共同出資によって「紀州商会所」という官民共同の商業促進課も設立されています。
 後年の明治政府も、殖産興業のため官民共同あるいは競争する形で、農商工業の施設や機関を創設している事例が幾つもありますが、その面においても紀州藩は中央政府を先取りしており、藩内の殖産興業に活かされることになります。


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 今まで両刀を腰に差し、兼職を賤しむ風潮で育った旧藩士=士族らが、職業の自由化(四民平等)によって農商工に転職するというのは、彼らにとって非常に抵抗感があると同時に不慣れなものでもあったので、結果的に転職失敗者も続出しましたが、中には、有名無名を問わず成功した例も存在し、明治期の殖産興業を大いに支えたのであります。紀州藩での成功例が、「牧場経営」「紡績業」、「火薬製造」、そして「皮革製造」と言えるでしょう。
 津田出が軍制改革によって西洋式軍隊を導入した直後、紀州藩ではプロセイン陸軍の元軍人であったカール・ケッペンら複数のお雇い外国人教師を招聘しましたが、その教師団の中には、ケッペンのような軍人以外にも、革細工師、革靴加工師、火薬加工師といった複数の職人も来ており、紀州の士族を含める四民に、当時最先端であった皮革加工や火薬製造を教授しているのであります。
 火薬加工は、軍隊に採用されている最新式銃・ドライゼ銃(ツンナール銃とも)に必要な火薬・薬莢製造で活かされ、革靴・皮革業では同じく軍隊に採用された軍服の革ベルトや革靴生産で、紡績業でも上着やズボン製作に役立っているのであります。ズボンなどの紡績業は、後に「紀州ファンネル(通称:紀州ネル)」と呼ばれる地元特産となるほどに発展しています。
 和歌山県工業技術センター公式HP『150年前のコア技術(綿ネルの創成)』頁に拠ると、この紀州ファンネルを開発の立役者となったとされるのが、(諸説はありますが)前掲の紀州商会所の手代・瀬戸重助、裁縫職人の宮本政右衛門、そして畠山義信という旧紀州藩士らであります。もし、畠山義信が紀州ファンネル開発に貢献している人物ならば、これも士族出身者が成功した一例というべきものであります。
 因みに、明治期の中で、紀州藩以外でも士族出身者の中で、他業種に転職成功し、明治期どころか現代産業にも多大な功績を遺している偉人らがおります。
 その中で最も巨大な人物であるのが、日本鉄道の発展に貢献した旧長州藩士であった「井上勝(旧名:野村弥吉、英国に密留学をした長州五傑の1人)」と言えるでしょう。井上は鉄道頭/鉄道庁長官などを歴任し、現在の東海道線や東北本線などの鉄道開通に尽力したことにより、現代では「日本鉄道の父」と称えられています。
 飲食面では、我々にも馴染みが深い菓子パンの1つである『あんパン』(筆者も大好物であります)。これは明治初期に木村屋本店が最初に作ったことは有名でありますが、その創作者の1人が木村安兵衛という茨城県(旧水戸藩領内)の士族、厳密に言えば半農半士の郷士出身者であります。
 現在、静岡県は国内有数の銘茶の産地と有名であります。現在の静岡茶では掛川・川根・天竜・本山といった茶葉が有名でありますが、その中でも牧之原は県下随一の茶葉生産地であり、近年までは牧之原が日本一の茶葉生産量を誇っていました(現在は、鹿児島県南九州市の茶葉生産量がトップ)。この牧之原台地を茶畑として開拓したのが、士族の中でもトップクラスであった旧江戸幕臣たちであります。
 大政奉還後、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜に従う形で、多くの旧旗本・御家人衆らが落ちぶれて静岡県に移住したことも有名でありますが、その中で慶喜の親衛隊を勤めた中條景昭(金之助)という剣客旗本という人物がいました。この中條を頭とする旧幕臣ら(金谷原開墾方)が、当時不毛丘陵地であった牧之原台地を苦心惨憺の末、茶畑として開拓していったのであります。
 中條景昭ら旧幕臣たちが牧之原台地を開拓し始めたのが、紀州藩の津田出が藩政改革に着手していた1869(明治2)年でありますが、当時の日本産茶葉は、生糸と並んで日本特産の輸出品目の双璧であり、現金化が早いという利点があったので、中條は茶畑を拓いていったと言われています。先述のように、現在静岡県が銘茶処として全国的に有名なのは、困窮していた中條景昭ら旧幕臣=士族らが両刀を鍬鋤に持ち替え、苦心の末に牧之原台地を切り拓いたことも要因の1つとなっているのであります。また中條景昭は人格的にも優れていた人物であったようで、後に神奈川県令就任の栄転辞令が彼に来ましたが、これを辞退して、苦労が多い茶畑開拓の道を選び、その生涯を捧げました。
 奸謀によって徳川幕府を追い落とし、新政府なるものを打ち立てた薩長閥の風下に就いてたまるか!という反骨心が中條景昭にはあったかもしれませんが、現在で言う神奈川県知事相当の好待遇を蹴った心意気を持っていた彼は全く素晴らしい傑物であります。
 因みに、牧之原台地を開拓する直前の中條景昭らに「茶畑を造れ」と提案した1人が、中條と同じく旧幕臣であり、当時、静岡徳川本家の幹事役であった勝海舟であります。海舟は例によって広い人脈を活かし、中條らが作った茶葉を江戸(東京)の商家に持ち込んで、「静岡茶は旨いからココで売ってくれ」とセールスマンのような事を率先して行い、静岡茶の周知に貢献したという逸話も残っています。この逸話の真贋は確かではありませんが、弁舌が立ち、『俺の得意分野は、ズバリ経済だ!』(氷川清話)と周囲に豪語している勝海舟なら茶葉のトップセールスもやっていても、何ら不思議では無いと筆者は思うのであります。


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 先述のように紀州藩での殖産興業/開物局設置において、皮革業や紡績業が根付いてきましたが、開物局がその一助となっていた事は間違いありません。

⓶病院・学校の設立について:元々、蘭方医学と学問に積極的かつ開明的であった紀州藩。商人・浜口梧陵の抜擢

 「病院」と「学校」という正しく「近代社会の産物」を彷彿させる言葉ですが、明治新政府に先駆けて紀州藩で藩政革命の一環として病院と学校を開設しています。
 元来、紀州藩というのは学問(主に朱子学と国学)と医学を藩内で振興することに熱心な藩で、中でも5代紀州藩主であった徳川吉宗は、紀州藩主時には藩士庶民を問わず儒学を学べる「講釈所」を和歌山城下に開設し、江戸幕府8代将軍就任後には、蘭学洋学・漢方医学など多種多様の書物を和蘭と中国から輸入、後の蘭学ブームの先達者となりました。また吉宗以上の学問好きの藩主として挙げられるのが10代・徳川治宝(はるとみ、舜恭公 通称:「数寄の殿様」)であり、彼が藩主在任中の1790(寛政2)年から翌年にかけて、藩士子弟の教育と西洋医学振興を目的とした「学習館(藩校)」「医学館(医学大学)」を和歌山城下に開設しています。津田出が藩政改革を行う約80年前のことであります。
 当時新設された紀州医学館は、全国的に先駆けたものであった上、設けられた学科として診療・解剖・薬学・産婦人・小児・外科など多岐に渡り、現代の医学大学に匹敵するほどの教科内容でした。
 江戸幕末期(1850年代)になると、日本全国で天然痘が大流行して多くの人命が失われましたが、その予防接種として大坂の蘭方医・緒方洪庵が牛種痘を普及に努めたことは周知の通りでありますが、その偉大な洪庵先生が没した1863(文久3)年に紀州医学館では種痘を行っており、貧しい庶民には無料で投薬していました。
 紀州医学館が数年前(1858年)に漸く江戸幕府から認可された牛種痘を早い時期に用いたこと、庶民にも無料投薬していていたという仁に富んだ医術を施してことを見てみても近代医学の基幹(医学は仁術)に準じるものがあります。
 上記のような江戸中期から幕末期にかけて紀州藩で播種されていた近代医学思想を礎にして、津田出の藩政改革の一環とする病院が築かれることになったのであります。

(以上の参考文献:和歌山信愛大學教授 木本毅先生 著『近世紀州の学問の成立— 紀州徳川家と藩校教育の思想と歩み— 』)
 


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 1869(明治2)年の津田出の藩政改革で医学館は閉館となりましたが、その代わりとして派生した1つが、傷病兵を収容保護する施設『廃兵院(仏語で言うアンヴァリッド)』であります。以前放送されたNHK大河ドラマ『青天を衝け』の劇中でも、主人公・渋沢栄一が後に赤十字活動の先駆者となる医師・高松凌雲と共にフランスの廃兵院を見学、戦傷を負った仏兵士を治療世話している情景に、大いに感銘を受けている場面がありました。
 武家社会では、戦傷を負った将兵の面倒を、幕府や藩の官立施設において一挙に引き受けるという施設(廃兵院)は皆無であった時期に、紀州藩はそれを整備していたのです。
 軍制改革(交代兵制の樹立)の大成功により最大規模の西洋式軍隊(近代軍隊/銃隊)を編成していた紀州藩でありますので、その構成員である将兵の福利厚生を担当する人材と施設(「軍医と廃兵院」)の創設も必要不可欠であったのです。
 日本の江戸幕末期における諸外国では、既に開設されていた廃兵院の存在を津田出が知った正確な経緯は不明です。しかし想像を許されるのならば、彼が青年期の頃に熱心に学んでいた和蘭学や洋学を通じて廃兵院の存在を初めて知ったと思われ、また後年に軍制改革で西洋式軍隊を立ち上げた際に、招聘した元プロセイン陸軍軍人であったカール・ケッペンといった外国人教師団から直に、より詳しく廃兵院の仕組みを学んだのではないでしょうか。
 拙者の上記の勝手な想像の正否は兎も角、以前から医学には強い関心を示していた紀州藩の藩風を活かし、津田出が紀州藩で廃兵院の開設を行い、軍事医療によって藩内で西洋医学を根付かせたのであります。因みに、明治政府(陸海軍)によって本格的に廃兵院制が敷かれるのは紀州藩の廃兵院設立より約40年後、即ち1907(明治40)年になってからであります。

 紀州藩10代藩主・徳川治宝は学問修養に熱心な人物であったことは先述の通りであり、医学館を創設した前年の1790(寛政2)年に、『学習館』を創設し、更にその2年後には紀州藩江戸藩邸に藩校・「明教館」、1804(京和4年)には紀州藩領の伊勢松坂にも「松坂学問所」を開校し、藩士子弟の教育振興に貢献しました。
 10代藩主・治宝の治政は領内一揆や藩士間の派閥抗争の頻発を招くなど多くの問題がありましたが、前掲の医学館や学習館を設立し、紀州藩内に開明的な西洋医学を根付かせ、藩士たちに向学心も植え付けた良き風習を造り上げた文化面での功績は大きいと思います。かく言う津田出も好学の士であり、少年期には父からは儒教(荻生徂徠学)を学んだ上、青年期には蘭学/洋学を積極的に学んだほどでした。(尤も、学問好きが昂じて身体を害してしまい、生涯病弱となってしまいましたが)
 その学問好きの病弱藩士であった津田出を藩政改革の責任者として抜擢することになる14代藩主・徳川茂承の代、つまり江戸幕末動乱期になると、幕府や諸藩では殖産興業や国防整備に注目されるようになり、紀州藩の和歌山城下でも藩士に西洋兵学と語学を教授するための教育機関「岡山文武場」と「蘭学所」を開設(1856/安政2年)。これが契機となり元来学問奨励の藩風を培っていた紀州藩内でも、いよいよ洋学振興の気風が高まることになります。即ち、若年から蘭学/洋学を独学していた津田出が活躍できる舞台が整ったのであります。
 江戸幕府の崩壊などで政局情勢が混迷極める中で、紀州藩の立て直しを迫られた藩主・徳川茂承は、津田出を同藩の執政に大抜擢し、藩政および軍制改革の責任者とします。
 抜擢された津田出は政治軍事の他に教育改革にも着手し、10代藩主・徳川治宝が創設した学習館の充実化を図り、「国学所」「漢学所」「洋学所」「秘書寮」などの学科を開設、更に学習館の統括責任者である役職・知局事には、商人身分から紀州藩の勘定奉行に抜擢された異色の経歴を持つ秀才・浜口梧陵を抜擢しました。
 浜口梧陵についても、筆者は前回の津田出の関連記事でも幾度となく触れさせて頂きましたが、紀州藩有田郡の醬油醸造業(現在のヤマサ醤油)を営む分家の商家に生まれ、若年の頃より学問を志し江戸へ上り、そこで佐久間象山、勝海舟、福沢諭吉、佐藤泰然、関寛斎といった当代きっての碩学者や医学者らと交流を結び、学識や人格を高めていきました。特に福沢諭吉との交流は深いものであり、明治期以後も同郷の若者らを福沢が開校した慶応義塾に入学推薦するなど便宜をはかっており、この中には、後に第30代文部大臣となる鎌田栄吉がいます。浜口梧陵が持つ人脈の広さは、津田出より優れていたことが容易に想像つきます。


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 紀州藩へ戻り家業を継いだ浜口梧陵は、本業の醸造業に勤しむ傍ら、民間教育機関・耐久舎の開校、堤防築造、農漁村の復興、種痘所の開設援助など教育・実業・人材育成など多方面に渡って活躍しました。中でも、子弟教育と近代医学の推進には生涯に渡って私財を投じて尽力したのは有名であり、江戸で知遇を得た蘭方医・関寛斎の長崎遊学を支援したのは好例であります。因みに、関寛斎は後に、阿波徳島藩の典医、明治新政府軍の軍医などを歴任した後、徳島で1人の町医者として民間医療に大いに貢献。徳島の人々から「関大明神」と崇められるほどでした。関寛斎は浜口梧陵の眼鏡に適った傑物であったのです。

 浜口梧陵の紀州藩内での行政や経済支援などの功績が認められ1868(明治元)年に、梧陵は商人身分ながら紀州藩の勘定奉行に抜擢され、翌年には津田出が藩政改革を主導するようになると、先述のように紀州藩の教育委員長というべき学習館知局事、更に梧陵の出身地である有田郡の治政を担当する民政局知局事も兼任するようになります。
 現在、玉川大学教育学部教育学科の教授(教育史)であられる多田建次先生が、学生として慶応義塾大学在籍時の論文『廃藩前後における福澤をとりまく地方の教育動向について :紀州藩共立学舎めぐって(その1)』(1975年)をご発表されていますが、津田出、福沢諭吉の友人であり、出の藩政改革を補佐する浜口梧陵について書いておられます。
 その文中で多田先生は、『藩政改革で自身の政治生命を賭けている津田出が、浜口梧陵のような有力者をブレーンとして引き入れたのは当然である』と書かれた上、また『津田出は梧陵が持つ財政的手腕、浜口家の財力に期待したのでないか』と結論付けられています。
 
 紀州藩の教育改革担当者として津田出に抜擢された浜口梧陵は、学習館の学則改革を行い、同館の基本教育方針を発表しています。筆者なりに箇条書きで概略させて頂くと以下の通りです。

 『学習館の生徒貴賤を問わず、四民同胞学科等級を以って学科を成す』(入学者の階級緩和)
 
 『学業優秀者は、秘書寮に入寮することを奨め、政府に推薦する』(人材抜擢)

 『学業優秀者には官費を以って遊学を許可すること』(官費留学の推進)
 


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 身分不問の教育場所と時間の提供、成績優秀者の人材登用や官費留学の推進などは、後年の明治政府が実施する近代教育制度の一環でありますが、1869(明治2)年頃の紀州藩では津田出と浜口梧陵の手によって近代教育の礎を完成させていたのであります。
 翌年の1870年には、浜口梧陵は藩外の福沢諭吉の協力をも得て、公設民営の洋学校『共立学舎』を開校し、蘭学・英学・地理・物理・歴史など多科目を、四民教育を目指すことになります。
 浜口梧陵が津田出の藩政改革の協力者として、紀州藩の教育改革に尽力しましたが、『学習館』と『共立学舎』共に、廃藩置県などの中央情勢に拠って1872(明治4)年までに廃校。紀州藩の教育改革は短命で終了しましたが、津田出が浜口梧陵の協力を得て、紀州藩で全国に先駆けて近代教育の芽を植え込んだことは確かであります。

 紀州藩は、藩主・徳川茂承の英断によって抜擢された中級藩士層である津田出が主導した藩政改革と軍制改革の成功により、新政府や諸藩に先駆けて、政治・軍事・殖産・教育・厚生など近代国家の成立には絶対欠かせない要素を立ち上げたのであります。津田出本人の言を借りれば、『彼の欧米各国と併立すべき郡県制度の雛型を造り茂承公をして日本帝国開明実行の先導者たらしめん』(『壺碑』文中より)という『開明的な藩政改革』を有言実行したのであります。
 紀州藩が独力で藩政革命を成し遂げ、近代国家の優れたプロトタイプを完成し、新政府および諸藩、諸外国の駐日外交官たちに誇示することにより、彼らから大いに称賛を受けました。
 後に徳川茂承が上京した際、明治天皇から直に天盃を賜る栄誉を受け、また岩倉具視と並んで新政府の右大臣や太政大臣などの要職を歴任する公家・三条実美は、紀州藩の藩政改革(郡県制度の確立)の功績を大いに称賛し、感状を茂承に与えています。 
『勝てば官軍、負ければ賊軍』という有名な言葉がありますが、数年前の鳥羽伏見の戦い(1868年/慶応4年)では、旧幕府軍の親藩大名として新政府に敵視されていた紀州藩は、戦後、藩主・徳川茂承は単身京都で軟禁状態された上、多額の償い金を徴収される憂き目に遭うという賊軍扱いを受けますが、その僅か2、3年後には津田出の藩政改革で近代国家の先鞭をつけたことにより、一転、新政府から大いに絶賛される官軍となったのです。
 豊臣秀吉や徳川家康のように戦場(純軍事的行使)で勝ちを治め官軍となり世間の称賛を受けたという事例は歴史に多々ありますが、紀州藩のように藩政改革(政治的)の成功によって、勝ちを治め官軍となった例は極めて希少であり、何とも不思議な事例であります。


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⓷天才的経綸家・津田出の晩年。維新三傑にその器量を認められるも・・・。『津田太政大臣近状如何』と嘲笑される。
 
 経綸の天才・津田出、彼の後輩であり当時新政府の役人となっていた陸奥宗光ら多くの人材の助力もあり、全国に先駆け、正しく「開明的な藩政改革」を成功したことにより、新政府の兵部大丞・山田顕義や西郷従道など明治新政府の要人、江戸幕末期の外交情勢に大きな影響を与えた英国公使パークスなどの外国公使らが、次々と和歌山に来訪。京都や東京(江戸)という大都市圏ではなく、南海道に属する一国に突如誕生した近代国家の雛型を視察しました。
 津田出が実行した藩政改革によって紀州藩で完成していた近代国家と近代軍隊モデルは、(津田出が既に藩政改革で実行済みの郡県制度を基礎とした)、1871(明治4)年8月の廃藩置県によって、紀州藩と共に消滅し、彼が主となって創設した軍隊の将兵は明治陸軍の熊本などの各鎮台に再編入されました。この旧和歌山藩兵こと鎮台兵は、後の西南戦争(1877年/明治10年)など旧不平士族の反乱鎮定戦で活躍することになります。
 津田出は、廃藩置県に先立つ数か月前の1871年5月、明治新政府の招聘によって和歌山の地を離れ、東京へ上京、明治新政府に出仕することになります。先年の紀州藩を視察した山田顕義や西郷従道の報告によって、隠れた天才的経綸家・津田出の存在を知っていた新政府は、出を東京に招聘したのであります。この時、津田出39歳。
 新政府に招聘された津田出は、廃藩置県によって紀州藩改め和歌山県となった役職・県大参事(副知事、県知事は徳川茂承)に任命され、その僅か2週間後(1871年8月)には、太政官麾下の大蔵省の役職・大蔵少輔に任命されました。この役職は、伊藤博文・吉井友実・井上馨ら薩長人が就任するほどの重職でしたが、薩長土肥派閥以外から初めて大蔵少輔に任命されたのが、紀州(佐幕派)出身の津田出その人でした。この人選を見てみても、その当時の新政府が、津田出に大きな期待を持っていたことがわかります。しかし、その約1ヶ月後の9月、津田出は病気理由に大蔵少輔を依願辞任。東京の居住先である番町の旧旗本屋敷で病気療養生活に入ります。
 実は、津田出が上京した直後の1871(明治4)年5月に、出を直々訪ねた人物がいました。それが新政府の最大の立役者にして後に維新三傑の1人と称せられる薩摩の西郷隆盛でした。訪問理由は、勿論、旧紀州藩の藩政と軍制の大改革を成功へと導いた津田出から詳細を教授してもらい、出の器量を確かめるためです。この時の西郷隆盛は津田出より年長の43歳にして、新政府の正三位参議の高位であり、対して西郷よりも年下の出は、病気療養中の正八位(大蔵省四等出仕)という西郷よりも軽輩身分に過ぎませんでした。

『おれは、今までに天下で恐ろしい者を2人見た。横井小楠と西郷南洲(隆盛)だ。』
『西郷なんぞは、どの位ふとっ腹だったかわからいヨ。』
『西郷はちっとも見識ぶらない男だったよ。』

(以上、『氷川清話』文中より)


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 上記3つの西郷評を言ったのは、ご意見番にして辛口人物評でお馴染みの勝海舟であります。江戸幕末期の薩摩と幕府という緊張関係を超越して、西郷と厚い友誼で終生結ばれていた旧幕臣の勝海舟も、西郷の大雅量に惚れ込んで、上記のように西郷を称賛しているのであります。
 西郷隆盛が人並外れた無欲な人格者である、ということは、勝海舟どころか後世の我々でもよく知るところでありますが、その彼が年下で格下の津田出を師と仰ぎ、辞を低くして出を訪問したのであります。その証左として、1871(明治4年)5月に、西郷隆盛は、津田出の後任として和歌山県大参事であった山本弘太郎宛ての書簡にて、今月4日に津田出と面会できるように、懇切丁寧に依頼しています。
 
 『津田出のほうが、こういう場合(筆者注:西郷との会見)、ちょっと尊大ではなかったかと心配するのです。』

と書いておられるのが、司馬遼太郎先生であります。著作『「明治」という国家』(NHKブックス)で上の事を書かれているのですが、その理由として司馬先生は、以下のように書かれておられます。

 『津田出の家系は、根っからの紀州人であり、戦国の紀州人は「雑賀一揆」でもわかりますように、日本では珍しい一階級意識が、戦国のむかしから風土として息づいておりました。上も下もあるか、という性根のすわった土俗的気風が、この場合の津田にもあったかもしれません。』

(以上、第4章「”青写真”のない国家」文中より)

 戦国期の紀州人は、雑賀孫一鈴木重秀)が典型的存在であり、反骨精神が並大抵でない智勇兼備の名将である孫一は、気質を同じくする雑賀衆と共に天下の覇者・織田信長に徹底抗戦したのは有名ですが、その人気と気風を受け継いだ紀伊国で生まれ育った津田出も、旺盛な反骨心を持っていた可能性は十分あります。しかも先述のように津田出は、若年の頃より儒学や蘭学を習得した見識高い教養人である上、近代国家の魁となる藩政改革を成し遂げた多大な実績がある功労者でもあります。それほどの人物でありながらプライドが極端に低いという事は滅多に無いことであります。
 見識も実績もある誇り高い津田出は心中、俄かに天下を手中にして維新後4年も経ちながら、政治軍事全ておいて不徹底な国家政体しか敷いていない薩長土肥の新政府を蔑視していたかもしれません。その心中が少しながらも外見や所作に露わになってしまい、西郷隆盛から尊敬を受けながらも、大隈重信や勝海舟といった津田出の酷評(詳細は後述)があるが如く、出が後々まで参議や卿(大臣)などの新政府の核心部の役職に就けなかった大きな原因となっているかもしれません。西郷隆盛嫌いであった大隈重信が、西郷推薦の津田出を嫌うことは感情的にもあり得そうなのですが、残念ながら西郷好きの勝海舟でさえ、津田出のことを『功績を鼻にかけた強欲な輩』(『海舟語録』)というような意味合いで酷評しているのであります。
 函館戦争を引き起こし、最後まで新政府に抵抗しならながら、後に新政府に出仕して、海軍卿や外務大臣などを歴任した旧幕臣の榎本武揚(釜次郎)とは雲泥の差であります。こういった事例もあるので、津田出が榎本武揚のように新政府で優遇されなかったのは、やはり出の性格に難があったと思われるのです。


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 何れにしても、1871(明治4)年5月に、薩摩人にして人格高潔の西郷隆盛は、反骨心が強い紀州人にして見識高い津田出と青山紀州藩邸にて面会を果たします。
 津田出から紀州藩での藩政改革や軍制改革についての詳細を教わり、出の見識と実行力の高さを知った西郷隆盛は、すっかり津田出に心服することになり、『是非、新政府の首相になり、国家運営を主導してくれ』と懇願するようになりました。当初、その薦めに驚いて固辞していた津田出ではありましたが、西郷隆盛の懇切な説得により、『もし全権を与えてもらい、自分の思うままに裁量させ頂ければ、引き受けてもよろしいです。』と言って大役就任の件を受諾しました。
 西郷隆盛は、早速、木戸孝允や大久保利通など新政府の重役たちに、『津田出先生を首相(太政大臣)に戴き、我々はその輔弼の任に回るべきだ』と説いて回りました。大久保も自身の日記内で『紀州の津田出は実に非凡な人物である』と出については、高評価をしています。
 しかしながら、いくら西郷隆盛・大久保利通という明治政府の双璧を成す大元勲が津田出を強く推してみても、政府内の要職を占める公家と薩長土肥派の他の連中が、数年前まで敵方であった旧江戸幕府の親藩であった紀州藩出身の津田出という人物の台頭を快く思うはずが無いのが理であり、西郷・大久保も、その大勢には逆らうことは不可能であります。そして、更に津田出に金銭不正疑惑が浮上してきました。
 その金銭不正疑惑というのは、「賞典禄(賞賜米一時下げ渡し)問題、1872(明治5)年」というものでありますが、この賞典禄問題について述べさせて頂くと、1870(明治3)年、当時まだ紀州藩主であった徳川茂承が、藩政改革で多大な功績を挙げた津田出とその改革参与らに対して、特別賞与米500苞(俵)を毎年、「終身下賜」することを決めましたが、出たち改革幹部は、未だ改革未達成という理由で賞与を固辞しました。それでも徳川茂承は、津田出らの功績に報いたいという一心で、賞典禄は当時の紀州藩政の主格であった政治府に一時的に預かり扱いとし、改革完成の際に改めて出らに下賜することにしました。この一連の顛末は、新政府も了解していることでありました。
 1871(明治4)年3月に、先述のように津田出は新政府の招聘により上京、同年8月に廃藩置県により紀州藩は消滅して、出の紀州藩での職務は完全に無くなりました。そこで津田出と改革幹部らは、紀州の政治府で預かっていた終生分の賞典禄を、17年分(17年×500苞)一時払いの賞与として短縮してもらい、それを現物として受け取りました。
 この当時、和歌山県の政治は、津田出の実弟である県大参事である津田正臣(旧名:監物)をはじめとする出と藩政改革に取り組んだ人物たちが多くおり、出にも先述の17年分賞典禄の授与も問題なく処理されました。しかし、廃藩置県後に津田出を厚く信頼していた徳川茂承が藩知事を解任され、新たなに中央政府から和歌山県知事が派遣されると、一転して賞典禄が問題視されることになり、1872年1月早々、汚職疑惑が浮上した津田出に詮議が入ることになりました。
 前掲のように、紀州藩の政事府で賞典禄の一時預かりの旨は、中央政府に届出済みであったのですが、廃藩置県後に津田出が17年分の賞典禄を一時にして受け取ったことが、汚職として嫌疑がかかったのです。賞典禄預かりの件を了承していながら事を騒ぎ立てる新政府側の言掛りとしか言いようがないですが、奇才の持ち主ながらも旧幕府側(藩閥外)の出身という津田出の弱点が出てしまったと思います。
 津田出の賞典禄問題が浮上した同年(1872年/明治5年)に、発覚した汚職事件「山城屋事件」の主犯として嫌疑がかかった当時の陸軍大輔兼近衛都督の要職にあった山県有朋は一時的に辞職に追い込まれますが、藩閥の長州出身であった山県は後に復職を果たし、陸軍の首魁として、政治軍事に絶大な権力を持つことになる経緯を比べれば、津田出の藩閥外出身という経歴に影響があったとしか思えません。
 『津田出先生に、国事を任せるべきだ』と公言し、出の強力な後ろ盾的存在であった西郷隆盛は、上記の賞典禄問題で出に対して抱いていた信頼が揺ぎ始め、その後、出と距離を置き始めたと言われています。『敬天愛人』をモットーとしていた西郷が大雅量の持ち主であり、他人に対して度量の広い人物であったことは周知の通りでありますが、ただ金銭や物に対して欲深い輩に対しては冷淡なところもありました。この聖人君主的な高潔過ぎる人格が災いして、西郷隆盛は同僚らの傲岸不遜ぶりに愛想を尽かし早々に新政府から去ることになるのですが、そういうある意味で繊細すぎる思想を持つ西郷ですから、汚職疑惑が出てしまった津田出に落胆してしまったのでしょう。
 賞典禄問題発生時に、津田出の上官に当たる大蔵大輔・大隈重信は、津田出のことを以下のような意味合いで批判しています。


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『西郷・木戸が称揚していた何某(津田出)は、余(大隈)が適所であると思い与えた地位と職務(大蔵少輔や4等出仕)さえも十分に全うできない少才であり、これを見た西郷が、「自分はかつて何某を天下一の大人物と思っていたが、眼鏡違いであったことを謝る」と余に言った。』

(『大隈重信 昔日譚』文中より)

更に勝海舟も津田出のことを以下のように酷評しています。

『ああ、西郷や大久保も初めは信じていたよ。津田出はだましものだからね。しかし後には化けの皮が現れて、それからは少しも用いられなかったよ。』

(『勝海舟 海舟語録』文中より)

 西郷隆盛の強い推薦で新政府に仕えた津田出ですが、上記のように大隈重信や勝海舟のような明治政府に強い影響力を持つ人物から酷評されたのも影響があったのか、政権に携わる周囲の人物からも津田出の鳴かず飛ばずの姿を見て、『津田太政大臣近状如何』(「太政大臣・津田出は、最近何をしているのかな?」)と嘲笑したと言われています。 この様な陰湿なカラカイを受けてしまった津田出は、真剣に職務を全うできるはずがありません。
 紀州藩では尋常ならざる藩政改革を主導した偉人・津田出は、当初西郷隆盛の強い推挙によって鳴り物入りで、新政府に出仕しましたが、早々に賞典禄問題によって周囲から槍玉に挙げられてしまい、西郷の首相推薦は消滅。津田出は、後年に陸軍少将や会計監督官、貴族院議員など役職に就きますが、生涯に渡って政権中枢に携わることなく、1905(明治38年)に73歳で生涯を終えています。墓所は、東京の谷中霊園にあります。
 津田出の藩政改革の際、主に教育面で出を補佐した前掲の浜口梧陵が知局事となった紀州学習館に学び、後に慶応義塾でも学んだ教育学者・鎌田栄吉(後に第30代文部大臣)は、出ことを『藩札のような人材(紀州藩内のみにしか通用しない資産)』と評したと言われています。鎌田栄吉は、津田出の急進的な兵制改革を反対した人物であったと言われていますが、悲しくも結果的に、上記の鎌田の津田出評(『紀州藩内では大いに役立った偉人(藩札)であったが、中央政府では無用な紙切れとなった』)は、正鵠を射たものになってしまいました。
 晩年の津田出本人も、自分が紀州(和歌山県)という地方で活躍できても、大舞台たる中央政府では辣腕を振るうことは、出自や性格に拠って難しい人物であったと痛感していたようです。
 その一端を窺わせる書籍がありまして、それは『精神講話』(「津田出先生」)と銘打った書籍であり、生前の津田出と交流を持っていた明治期の宗教家・亀谷聖馨という人物が著者であります。本書内で、亀谷が晩年の津田出と談話したことが書かれてあり、その時に、明治新政府の草創期に大いに活躍できなかった自分自身について嘲笑気味に亀谷に語ったと言われています。その一文が以下の通りです。

 『先生(津田出)は、拙者も伴食に甘んじていたなら、世間(明治政府)から今少しよい役者と言われたあろうに、言って笑われた』

 この場合の伴食とは、「伴食大臣=実権の無い役職」という意味であるに違いありませんが、大蔵少輔を皮切りに、陸軍少将や貴族院議員という生半可な役職を歴任したことにより、却って周囲の反発を受けるようになってしまい明治政府内では中途半端な活躍で終わったということを津田出は自嘲したのでしょうか。もしかしたら汚職疑惑によって西郷隆盛の信任を失い、大隈重信やその他政府高官から酷評されてしまった自分の不甲斐なさを嗤ったかもしれません。更に勝手に想像を膨らませると、いくら天才的経綸の才覚の持ち主でも、それを中央政府という大舞台で活かすための人格が津田出には伴っていなかったと思うのです。
 筆者が勝手に思うには、津田出が亀谷聖馨に、自分自身のことを『伴食に甘んじていたなら』という意味は、『周囲の人々に迎合する能力』、簡単に言えば気遣いや思いやりである、と思えてならないのです。
 江戸幕末~明治初期に紀州藩で、永続していた幕藩体制/封建制を徹底的に破壊し、近代国家の骨組みである郡県制と徴兵制を根付かせた藩政改革を断行し成功した津田出は、それを遂行できるほどの見識と才覚を持っていた以上に、「果断過ぎるほどの性格の持ち主(陸奥宗光が畏敬したほどの性格)」であったことは想像できます。
 津田出がその強い性格を持っていたからこそ、紀州藩で近代国家のプロトタイプを完成させるほどの大事業を完遂できた大きな要因と思うのですが、明治新政府ではその強すぎる性格が、却って「禍」となり、周囲から『津田太政大臣近状如何』と嘲笑されるほどの冷遇されたのです。


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 明治政府内では、天才的経綸の才は活かし切れなかった津田出ですが、彼は1878(明治11年)頃から私財を投入して、ある産業に力を入れるようになります。それが『酪農産業』でした。この事については閑話的話題として、また次回にでも紹介させて頂きたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

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