徳川吉宗 江戸幕府8代将軍のスゴイ享保の改革

徳川吉宗 江戸幕府8代将軍のスゴイ享保の改革

徳川吉宗(とくがわ-よしむね)は江戸幕府の8代将軍を務めました。
ご存知の通り、徳川幕府では、幕末までに15名が征夷大将軍として就任します。
神君である徳川家康はともかく、15人のうち、もっともすぐれた君主・英主・名君ともされるのが、この徳川吉宗です。

徳川吉宗は、徳川御三家である紀州藩第2代藩主・徳川光貞の4男として1684年に生まれました。
母は、和歌山城の大奥にて、湯殿番として仕えていた女中とされる於由利の方です。
そのためか、幼い頃は、家老の屋敷で育てられ、手に負えないほどの「暴れん坊」であったとされます。

14歳になると、越前国丹生郡にて3万石となり、葛野藩主となりました。
しかし、兄がすべて死去したため、22歳のときに紀州・徳川家の家督を継いで、和歌山城に入りました。
すると、徳川吉宗は、自らも木綿の服を着るなどし、平日の食事も一汁一菜と定めて、一日に朝夕の二食を原則とするなど質素倹約を推奨しました。
こうして藩の財政再建を図り、10万両(300億円程度?)の借金を返済します。
また、和歌山城の大手門前に訴訟箱を設置して直接の訴願を可能にしたり、民衆への政策も充実させました。

1716年に、第7代将軍・徳川家継が僅か8歳で死去したため、2代将軍・徳川秀忠からの男系が途絶えます。
そのため、尾張・紀州・水戸の御三家より宗家に養子を出して、次期将軍を決めることになった際に、多くの支持が徳川吉宗に集まり、8代将軍となり江戸城に入りました。

注目すべきは、このとき、紀州藩を廃藩せずに、徳川吉宗は紀州徳川家の家督を譲り存続させたことです。
この事例は幕末まで続き、徳川御三家は保護されました。
また、徳川吉宗は江戸城に連れてきた紀州藩の家臣40名を、極端な話、適当に選んでいます。
なんでも、和歌山城にて、たまたま当番として登城していた者らに命じたと言う事で、蔓延していた側近による権力政治にならなかったことから、譜代大名や旗本は好感を持ったと言います。

そして、徳川吉宗は、すぐさま享保の改革(きょうほうのかいかく)を実行しました。

年貢増徴、実学奨励、倹約令の発令、司法改革、江戸市中の行政改革、小石川養生所の設営、飛鳥山や墨田川堤などへの桜植樹、目安箱の設置、新田開発、殖産興業など改革は多岐にわたり、幕府の財政再建に努めました。

特に、諸藩に対して1万石につき100石の割合で一時的に臨時の課税(献上米)を行いましたが、その代わりに参勤交代の江戸在府期間を1年から半年に緩和したため、藩主は国元での善政を行いやすくなりました。
1720年に享保の大火となると、江戸町火消しいろは四十八組を設置して消防活動も強化しています。
神田には天文台も設置して天体観察(暦づくりなど)にも力を注ぎました。
鎖国政策の中、キリスト教関連以外の書物に限って、洋書の輸入を解禁したため、その後、蘭学がもたらされることになったなどの評価もできるでしょう。
4000名いた大奥も1300名まで人員削減を行っています。
しかし、四公六民(4割)だった税を五公五民(5割)にしたことから、農民の生活は窮乏し、百姓一揆も発生かるなどし、質素倹約を求めた結果、経済的には停滞した側面もあります。

また、1717年には、江戸町奉行(南町奉行)に大岡忠相(大岡越前)を抜擢するなどしたことから、徳川吉宗と大岡越前の話は、現代でも時代劇ドラマなどとして登場します。

徳川吉宗は1745年に隠居すると、長男に家督を譲り、徳川家重が9代将軍に就任しました。
その後、徳川吉宗は1751年6月20日死去。享年68。

それからまもなく、徳川吉宗が紀州から連れてきた家臣の中より、その2世代目に相当する家臣・田沼意次が輩出され、田沼の改革へと繋がります。

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