本願寺勢力を大勢力にした蓮如上人(本願寺蓮如)というカリスマ法主

本願寺蓮如

 今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』のストーリー展開が更に面白くなって参りました。智将・明智光秀(演:長谷川博己さん、知的雰囲気が醸し出されている長谷川さんには光秀役は最適です)の戦略の下、尾張美濃の東海圏を統一したばかりの織田信長(同:染谷将太さん)が、足利義昭(同:滝藤賢一さん)を奉じて上洛を果たし、信長が他の有力戦国大名に先んじて天下に名乗りを挙げました。
 今後の麒麟がくるは、その成り上がり者・織田信長の躍進を快く思わない畿内の旧勢力である室町幕府内の反信長派・越前朝倉氏・三好氏・六角氏・比叡山延暦寺、そして一向一揆衆(本願寺勢力)らが、東国の戦国最強・武田信玄をも味方に取り込んで、信長を討滅しようとする、所謂有名な「第一次信長包囲網」へと物語が展開します。
 皆様よくご存知のように当時(1570年代前半)の織田信長、その配下である明智光秀や羽柴秀吉、信長唯一の盟友・徳川家康ら、後の天下を動かしてゆく人物たちにとって「最大の受難の時期」でもあり、大河ドラマ内で、信長と光秀たちが悪戦苦闘の末、どのようにして信長包囲網を脱してゆくのか、一大河ドラマファンの筆者にとって今後の展開が愉しみであります。
 またこの第一次信長包囲網期が終わると、今度は大坂本願寺(以前は石山本願寺の呼称名で知られていました)を始めとする各地の一向一揆との宗教戦争が中心となってゆき、織田軍側の織田信長や明智光秀も一向一揆戦に苦戦させられる余儀なくされるので、この事も大河ドラマ内で描かれるのではないでしょうか。
 上記の筆者の予測(何とも当てにならないものですが)が、当たることを期待しつつ、今記事ではかの織田信長、その配下である明智光秀・羽柴秀吉、徳川家康などの後に天下の覇権を握るほどの大人物たちを大いに苦しめ、他の戦国大名にもその勢力を畏怖された『一向一揆衆=本願寺勢力』の興りについて、主に浄土真宗中興の祖・蓮如上人の優れた『組織力』『カリスマ性』を軸として今記事を展開してゆきたいと思います。


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 1568年、織田信長が大軍を率いて上洛を果たした後、畿内・北陸にかけて多数の反信長勢力が存在したことは前述の通りでございます。信長は、その敵対勢力に対して合戦や外交威圧などの方策で、悪戦苦闘しながらも1つ1つ片付けていったのですが、その中で長く信長を苦しめた一番の敵対勢力は、当時摂津国(大阪府中北部)の大坂を本拠として、畿内・北陸などを中心に、軍事および経済的に大勢力を誇っていた『本願寺勢力、一向一揆/一向宗徒』でありました。
 「本願寺勢力/一向一揆」(現:浄土真宗本願寺派)、皆様よくご存知のように、鎌倉期の大乗仏教から派生した『浄土真宗/南無阿弥陀仏』を宗旨とした一大宗派であり、現在でも日本全国で約700万人の信者数(大乗仏教の宗派では最大信者数)がいるとされている巨大宗教でありますが、開宗以来、今日に至るまで巨大な宗教勢力であったのか?というと、決してそうではなく、室町中期までは零細な宗派でしかありませんでした。
 浄土真宗の開祖は、『親鸞聖人(1173~1263)』であるということは有名であります。親鸞は90歳という長い生涯の中で、自分の師・法然上人(浄土宗開祖)を敬愛し、彼の教えを世間に広めることのみに喜びを感じていた崇高かつ孤高な僧侶であったので、浄土真宗を利用して集団的布教行動や一大勢力を築くということを禁忌としていました。しかも親鸞は浄土真宗の開祖という立場さえ自覚しておらず、現在最も信仰されている浄土真宗という宗派名も親鸞在世中は使われておらず、彼の死後にようやくその宗派名が使われるようになるくらいです。
 親鸞、正しく崇高な人格は「聖人」と尊称されても過分ではないと思うのですが、その彼の崇高すぎる人格および野心の皆無さが、寧ろ欠点となってしまい、親鸞聖人が入滅(逝去)後の浄土真宗は徐々に衰退し、室町中期(約15世紀後半)には天台宗を宗旨とする京都・青蓮院(青蓮院門跡)の末寺・本願寺(大谷本願寺)として存続している弱い宗教勢力に過ぎませんでした。
 因みに、親鸞入滅後の浄土真宗は、親鸞の子孫が受け継ぐ総本山というべき「本願寺派」を含め、親鸞の高弟たちが開いた「真宗高田派」「真宗佛光寺派」など複数の真宗教団が存在し、高田・佛光寺など関東を拠点としていた教団は盛んでしたが、先述のように、京都を拠点としていた本願寺は天台宗(比叡山延暦寺、青蓮院)の傘下(司馬遼太郎先生のお言葉を拝借すると『執拗な迫害を受ける』)で辛うじて存続しているような苦しい状況でした。その本願寺の苦境を打開し、本願寺を巨大宗教勢力、後の戦国期の覇権争いに大きく関わることになる一向一揆勢として急成長させたが、本願寺8世宗主(敢えて大名風に例えると8代目当主)である『蓮如上人/本願寺蓮如(1415~1499)』であります。


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 近年ベストセラーになり話題となった書籍『なぜ生きる』(2020年には映画化)の主人公・蓮如上人、別名:本願寺蓮如。
 親鸞聖人を先祖に持つ蓮如という並外れた器量を持つ傑物が全生涯(室町中期~戦国前期)を費やして、衰退の極みにあった本願寺派(蓮如にとっての実家)隆盛のため大活躍したために、本願寺勢力は畿内という主な活動拠点の域を超えて、北陸・東海・中国地方を含める天下の民衆を従えるほどの巨大勢力になったのであります。敢えて現代風に言うなれば、本願寺という倒産寸前の零細企業を継いだ蓮如社長が、苦心惨憺を味わいつつも縦横無尽の活躍により、日本一の大企業=本願寺総合商社まで育て上げたようなものであります。
 上記の活躍ぶりにより、蓮如は『本願寺中興の祖』と謳われることが多いのですが、司馬遼太郎先生はその蓮如の大器ぶりを著作『歴史を紀行する』(文春文庫)の文中「政権を亡ぼす宿命の都」で以下のように書かれておられます。

 戦国百年のうち、蓮如ほど組織力と宣伝力を持った人物は絶無であろう。その戦略的感覚はのちにあらわれる織田信長に匹敵するかもしれず、その城郭設計の能力にかけては当時の二流の武将などは足もとにもおよばなかった。蓮如が武将の家にうまれていたらどういうことになっていたであろう。しかしかれは肉食妻帯の家に生まれた。たまたまその家が親鸞を家祖としていた。親鸞からかぞえて八世の孫にあたり、貧窮のなかで成人した。』

(以上、「政権を亡ぼす宿命の都」文中より」)

 司馬遼太郎先生の蓮如評、優れた能力点を、箇条書きで特に表させて頂くと、⓵『組織力と宣伝力』と⓶『戦略的感覚』および『城郭設計の能力』の2点であります。その2点について筆者が詳細に概要を付け加えさせて頂くと、以下の通りなります。

⓵『組織力と宣伝力』について:当時、財力と自治能力を持ち始めていた「民衆(惣村=講)」の存在に着目する先見性、それを束ねるカリスマ性。今回はどうもこの⓵の紹介のみで終わるでしょう。⓶(『戦略的感覚』および『城郭設計の能力』)についは後の機会で。

 15世紀後半に、室町幕府の足利将軍家や有力守護大名(管領)の内紛騒動が発端により発生した応仁の乱(1467~1477)によって、当時の政権であった室町幕府の権威は衰退し、畿内を中心に守護大名たち同士の合戦が頻発。政治情勢は大いに混乱して統治者側である幕府や守護大名にとっては自身の権力が衰退するという厄難以上のものでありましたが、その反面、それまで彼らの被支配層であった全国各地の民衆が力を持ち始めた時期でもありました。民衆とは、農民、商工業者、そしてそれらの頭目的存在である国人領主や地侍らのことを意味しています。
 民衆たちが力を持ち始めた一番の要因として考えられるのは、14世紀後半~15世紀にかけて、以前は高価で希少であった鉄製農具が農民たちにも普及するようになったことで、地方各地で田畑開墾や米と麦を栽培する二毛作が盛んになり、世情不安著しい応仁の乱前後には、史上最高の農業生産力を誇ったと言われています。更に農業生産力=食糧が騰がることにより、人口も増え、人の生活を豊かにする様々な用品を生産する商工業、娯楽も発達しました。その代表的存在が、酒屋の台頭、茶道・能楽など文化娯楽発展であります。

戦国の城

 農商などの産業が発達したことにより、それらの従事者、リーダーである地侍という、幕府や守護大名から見れば地下人(民衆という最下級層)たちが、独自に力(経済力)を持ち始めるようになり、以前までは守護大名たちから強い服従関係、あるいは搾取を受けていた民衆たちは、複数の村落が共同して『惣村』/『一揆』を構成、各村落の自衛(運営管理)する一方、もし大名たちが気に入らない命令や年貢を命じてくると、それに対して猛抗議するということが多々起こるようになりました。多くの民衆が互いに団結して、初めて支配者に向けて対抗するという風潮が本格的に興ってきたのが15世紀後半であり、その時代の流れを巧みに読み取り、浄土真宗の布教(本願寺の勢力)の拡大にフル活用したのが蓮如上人であります。
 蓮如は、民衆たちに浄土真宗(南無阿弥陀仏)の教えを広めるに当たって、口頭による説法だけではなく、御文(ごぶん、手紙)を以って解り易く教義を、本願寺信者に伝える方法も用いてます。その蓮如の御文の中で有名なのが、葬式で真宗のお坊様がお読みになられる「白骨の御文」があります。
 御文を以って本願寺信者を増やしてゆく蓮如がもう1つ用いた布教方法が、先述のように力を付け始めていた民衆たちの惣村の中に、『講(こう)』を以って新たに本願寺信者を増やしていったことであります。『講』とは、単純に言ってしまえば、浄土真宗本願寺の教えを信仰する人々で構成された『結社』であります。つまり各村落ごとに小さな本願寺信仰集団が結成されたものです。
 『講』とは元来、寺院内で『仏典や教義の研究を深める僧侶集団』の意味でありましたが、仏教が民衆間で急激に広まった中世以後、講は民衆の間にも定着して、彼らの間にも仏事研究などの関心が高まり、より各宗派の仏教が広まりを見せるようになりました。この背景により、浄土宗や日蓮宗、曹洞宗など日本の代表的な宗派が誕生したのであります。
 蓮如もこの『講』の結成を民衆(各惣村や町)に大いに奨め、彼らに真宗の教義について話し合い、その理解を深めることを盛んにすることを良しとしました。そのための講義会場として各町村に、『道場(小規模な真宗寺院)』の建立をもさせています。
 現在における道場の意義は、剣道や柔道など武道研鑽のための稽古場が一般的ですが、元来は仏教修行のために使われた場所を意味します。蓮如が人々に進めた真宗教義のための道場を建てるには費用が掛かりますが、15世紀後半当時に農商業が発展したことにより、経済的に余裕があり、本願寺教義に理解を持つようになった民衆たちにとって道場建立は決して不可能のことではなかったのです。


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 以上のように、蓮如は「南無阿弥陀仏と唱えればどんな人でも極楽往生できる(浄土真宗で言う、『他力本願』『悪人正機』)」という『御文』や『講』を活用して親鸞聖人以来の教えを広め、心酔した多くの民衆(農民・商人・地侍)が本願寺信者となったのです。
 現代の感覚からすると、この蓮如が行った文章や団体講義、その場所としての寺院建立などの本願寺の布教活動は一般的なものである、と思ってしまいますが、浄土真宗の開祖、蓮如のご先祖様である親鸞聖人からすれば、上記の蓮如の行いは、完全に(浄土真宗においての)『不文律破り』『違反』でありました。
 何故ならば、先述のように親鸞は、師・法然上人の教えのみを深化および教化させることのみを生涯の喜びとし、自分自身が教祖となり浄土真宗の教えによって、大いに信者を増やして、大教団を立ち上げ益を得るという利己的な宗教行動は生涯タブーとしたからであります。
 因みにその親鸞の真逆的存在として、(悪い譬えですが)宗教をダシとして、京都の朝廷・貴族、有力大名・商人など権威や金持ちを恫喝あるいは利用して巨万の富を築きあげたのが、(本願寺、更に言えば後世の織田信長の宿敵である)「比叡山延暦寺(開山:最澄=伝教大師)」や紀州の「高野山金剛峰寺(開山:空海=弘法大師)」という平安期以来の大寺院であります。
 この古代よりの2大寺院(特に比叡山延暦寺)は、朝廷貴族などからの援助、各地の豊穣かつ交通の要衝付近に多くの荘園を持った上、それらに関所を設けて関銭(通行料)を徴収したり、土倉業(高利貸)を管轄下に置くなど莫大な利益を得ていました。そして、それを元手として荒くれ者の僧兵(山法師)を多く雇い入れ、強大な軍事力を保持して、下界の京都や大名の政治に介入していったのであります。その被害者の中には、宗旨を異とする本願寺の蓮如も含まれていました。
 蓮如は、本願寺衰退、それに拍車をかける比叡山延暦寺の迫害を食い止めるという、即ち『自己防衛』目的で本願寺勢力を大きくしていったのでありますが、そのためには大いに信者=彼らからの喜捨(お布施)を増やし、各地に道場を建て、浄土真宗本願寺の教えを広めていく方策しかなかったのであります。

 『つまり本願寺は親鸞によって興ったのではなく親鸞の教団否定の遺訓を無視してこの宗祖の名をかつぎまわった蓮如によって興ったのである。蓮如はその八十四年の生涯で、六、七十人の子をうませ、二十七人成人したといわれるほどの精力家だったが、そのなみはずれた体力で天下を布教してまわり、各国各郡各村に講を組織し、ついにはそれまでかつてなかった民衆の全国組織を完成した

 上記の蓮如が『本願寺中興の祖』と称せられる生涯を短文ながらも見事に著したのが、前掲の司馬遼太郎先生であり、『歴史を紀行する』(文春文庫)の「政権を亡ぼす宿命の都」内の文であります。
 蓮如が持つ『組織力』と『カリスマ性』によって、農商業の爆発的発展で力を持ち始めている無名の地侍や民衆を本願寺信者を獲得して急成長して、『かつてなかった民衆の全国組織』となった本願寺勢力。この勢力が、織田信長をはじめ多くの有力戦国大名を怖れさせた「一向一揆の総本山」として戦国期に君臨してゆくことには誰もが知る有名な事であります。
 戦国史を大きく動かしたのは、織田信長である、ということは誰もが認める事でありますが、その信長の天下統一事業を約10年にも渡って阻み続けた本願寺(当時の法主は、本願寺顕如)という強大な勢力の歴史的存在感も計り知れないものがあります。そう思う度に、その絶大な本願寺を興した蓮如の巨大ぶりをも感じてしまいます。
 


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 蓮如が全生涯を費やし、苦心の末に本願寺の下に集めた農商工業や地侍といった“民衆という多種多様の人財”が一番の本願寺勢力拡大の大元となっていることは確実でありますが、その集積地、防衛および培養地としての『本願寺勢力の本拠地』を選定する優れた眼力と並外れた実行力も蓮如は兼ね備えていました。即ち、前掲の司馬遼太郎先生が書かれていた蓮如の『戦略的感覚』および『城郭設計の能力』であります。僭越ながら筆者の強引な付け加えをさせて頂くと、蓮如の城郭設計の能力点については、都市設計(町割)の能力部分も大いに含まれていると思います。蓮如の都市設計、それは本願寺独自の町造りで著名な『寺内町(じんないちょう)』であります。
 蓮如の布教活動の本拠点を大雑把に把握してみると、当初は先祖代々の拠点である大谷本願寺から始まり、次は「近江金森(滋賀県守山市)」と「堅田(同県大津市)」、北陸の「越前国吉崎(福井県あわら市)」、そして京都の「山科本願寺」、そして最後に摂津国東成郡生玉荘大坂の「大坂本願寺(石山本願寺)」を本拠として定めいます。
 蓮如が当時の情勢(主に比叡山延暦寺や日蓮宗など多宗派の迫害が原因)に応じて蓮如が拠点を遷し、本願寺勢力を大きくしてゆく優れた戦略性は、織田信長を彷彿させるものがあります。
 蓮如が最後に拠点として選定した大坂本願寺が戦国期最盛期(1570年代)に、全国一向一揆の策源地となることは有名でありますが、それ以前に選定した近江金森・堅田は古来より畿内と東国や北陸の人や様々な産物が行き交う陸路や琵琶湖上の経済流通の重要拠点であり、蓮如はそこに拠点を定め、本願寺信者、それらから産み出される喜捨(お布施)を手に入れることによって本願寺の勢力を大きくしていったのであります。
 比叡山延暦寺(蓮如曰く、「恐ろしき山」)の激しい妨害により金森や堅田でこれ以上、本願寺勢力拡大が出来ないと痛感した蓮如は今度は、北陸の越前吉崎に拠点を遷し、『吉崎御坊』を築いて勢力の拡大を目指します。現在でも福井県あわら市吉崎を興した開祖として、蓮如上人は強く尊崇されていますが、蓮如が来る前の吉崎の地は、侘しい寒村(同曰く、「年来虎狼すみなれし在所」)でしたが、地理的には日本海と北潟湖(きたがたこ)が隣接しており、湖上を通じて、当時日本国内の最大海上ルートであった日本海へ直ぐに合流することができる地の利に恵まれていた場所でした。
 先に近江金森や堅田という交通の要衝を拠点にし、人や物資が集積する陸水の要衝を知っていたであろう蓮如は、寒村ながら越前吉崎の要衝性を感じたに違いなく、だから街のコア(核心)となる吉崎の丘陵に吉崎御坊を築き、その周辺には本願寺信者が集住する町屋や宿屋を築いて、人や財力が集まる本拠としたのであります。
 蓮如が吉崎御坊を、本願寺勢力拡大=南無阿弥陀仏の布教の本拠として定めて以降、本願寺信者が爆発的に急増し、司馬遼太郎先生が言う『民衆の全国組織』として本願寺は成長していくのであります。その要因は何か?それは蓮如が展開した独自の『御坊』、そして先に少し述べた『寺内町(じんないちょう)』というセットの城郭および都市設計がキーワードとなり、越前吉崎における勢力拡大の成功体験、現代風に言えば『本願寺ビジネスモデル』の開拓が、後の蓮如本拠移転の山科本願寺、大坂本願寺にも大いに活かされ、本願寺勢力は更に強大となり、有名な一向一揆となってゆき、天下布武を唱える覇者・織田信長の前に大きく立ちはだかるのであります。
 蓮如が展開した御坊と寺内町セット=本願寺ビジネスモデル、の詳細、即ち先述の⓶(蓮如の『戦略的感覚』『城郭設計の能力』)については次回探ってゆきたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

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