天王社(天王山)・宝珠寺の傘下にあった北の守護
神奈川県藤沢市辻堂元町2-12所在の天王社を紹介します。
宝珠寺の向かいの丘にあります。
天王山と呼ばれ、元々は宝珠寺の傘下にありましたが
明治6年(1873)の神仏分離政策によって分けられました。
一説によりますと、
辻堂領諏訪神社の北の守護として建立されたともいわれております。
昭和初期までは神輿が奉られ、毎年7月25日には
辻堂元町の町内を練り歩く行事が行われていました。
そのお神輿は現在、辻堂両諏訪神社に奉納されております。
アクセス:
JR東海道線「辻堂」駅南口
徒歩14分程度
この地を訪れた3月上旬はちょうど河津さくらが咲き誇り、
松林の深い緑と砂丘のサンドベージュ、そして河津桜の濃いめの桃色、
空の青とそれは見事な配色でした。
そして心地よいほんのり暖かい風が吹き、
しばしこの地に留まっていました・・・。
天王社の石碑
三つの石碑があります。
説明看板にはご祭神として
「御嶽山権現(おしたけやまごんげん)」
「長崎大明神(ながさきだいみょうじん)」
「大日大聖不動明王(だいにちたいしょうふどうみょうおう)」⇒お不動さん
の名前が記されてあります。
更に石碑を拝見しますと
「八海山大頭羅神王」
「御嶽山座王大権現」
「三笠山刀利天」
の文字があり、
小和田熊野神社でもあった「木曽御嶽信仰」の三神です。
この「御嶽信仰」は
鎌倉~室町時代から「山岳信仰」と「民間信仰」が結びつくことにより
栄えていましたが、江戸時代によって庶民の間に広まっていったそうです。
この天王社は元々は宝珠寺の傘下にあり、
寺と共に地元の人々に信仰されてきたと思います。
明治に入り、神仏分離で独立という形をとりましたが、
「御嶽信仰」そのものは山岳信仰ですから、
制度は変われど「神仏習合」は変わらずに信仰されてきたことでしょう。
それが昭和初期まで続いたお神輿渡御の行事だと思います。
その神輿は今は両諏訪神社にあります。
その神社では人形山車も復活しています。
こうして今は役目を終えて、両諏訪神社に引き継ぎ、
ひっそりと「北の守護」として見守り続けていると思います。
辻堂の原風景~八松原~心地よい場所です。
辻堂は、相模野台地の両端から相模湾にいたる、
引地川の西側の殆ど平坦な砂地ですが、辺り一帯砂丘が広がっていました。
そして松林は勿論、
浜防風(セリ科の多年草で海浜の砂地に自生し、若葉は柔らかくて芳香がある)が生え、
低い松林には松露(茸の一種で、春に海浜の松林の中に発生し、球状で殆ど地中に埋まっている)
などの草も生えていました。
そしてその昔、辺りは「八松原(八松ヶ原)」と呼ばれていました。
「源平盛衰記」には寿永2年(1183年)、
佐々木四郎高綱(田畑神社に伝説があります)が木曾義仲追討のために上洛の折に
「十七騎にて稲村、腰越、片瀬川、砥上が原、八松原馳通し・・」と記してあるそうです。
「八松」は「八松小学校」や「八松稲荷神社」の名称でも残っています。
宝珠寺の門にも「八松山」と記されています。
大正5年(1916)に東海道線辻堂駅が開設されると、
住宅地や工場地としてどんどん発展し、
一方で松林のある砂丘は姿を消していきました。
私が未就園児だった昭和40年代後半は、
辻堂駅周辺から国道1号線の辺りにも
「辻堂砂丘」と呼んでいた砂地がまだ広がっていました。
月日が流れ、再び辻堂に住み始めた1980年代に入ると
砂丘は姿を消し、松林も国道1号線沿いに生えているだけになりました。
そうした中、辻堂駅から徒歩圏にあるこの場所は本当に貴重です。
小高い丘になっており、高い建物が無いころは
辺りを見渡せたのかもしれません。
吹く風は心地よく、肌寒い日でしたが、
この場所は暖かかったのでした。
しばし、ぼーっとしていました。
また、
とても飲食なんてできる場所ではありません。
この場所と一体になれるような心地のよさは
何らかのパワースポットであるとも思います。
但し、夕暮れ時以降は、
おひとりでは行かれない方がいいかとも思います。
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