源雅信を分かりやすくく1分で要点解説【光る君へ】円融天皇から頼りにされた宇多源氏の祖

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源雅信

源雅信

源雅信(みなもと の まさざね) は平安時代中期の貴族で920年に生まれた。
父は敦実親王(宇多天皇の第8皇子)で、源雅信は3男。
母は左大臣・藤原時平の娘。
兄弟に僧侶・寛信、僧侶・寛朝、源重信、僧侶・雅慶がいる。
兄の寛朝(かんちよう)と、弟・雅慶(がけい)は東寺長者・大僧正となり、真言密教の重鎮として活躍した。

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、俳優の益岡徹さんが源雅信の役を演じられる。


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承平6年(936年)、源雅信は源氏姓を賜り臣籍降下し宇多源氏の祖となった。
<注釈> 臣籍降下(しんせきこうか)とは、皇位継承の可能性が低い皇族が姓を与えられ臣下の籍に降りることで、朝廷の財政圧迫するなどの理由から行われる。(皇族が就任できる官職に限りがあるため、皇族を離れたほうが収入が高くなる場合も多い) 平安時代に入ると源氏および平氏のいずれかを与えた。

そんなこんなで源雅信は938年に侍従、948年には蔵人頭を経て出世していく。

雅楽、和琴、和歌、蹴鞠 (けまり) が得意だったと言う源雅信の妻は源公忠の娘。
なお、藤原朝忠の娘・藤原穆子が産んだ源倫子は藤原道長の妻となり藤原彰子を設けており、藤原氏との縁も強かった。
また、中の君は藤原道綱の妻となっている。
藤原元方の娘が産んだ源扶義は、近江源氏の佐々木氏に繋がった。
他に藤原為光の娘も妻である。

969年、円融天皇が即位すると信任を得た源雅信は、権中納言、中納言、大納言、977年には右大臣へ昇進。

977年、関白・藤原兼通が死去すると、978年、左大臣を兼ねる関白・藤原頼忠が太政大臣になり、源雅信は左大臣(太政官の事実上の最高位)。
同母弟・藤原兼家は右大臣へ昇進している。

984年、円融天皇が譲位して花山天皇が即位。
花山天皇は関白・藤原頼忠を牽制し、源雅信が一上(いちのかみ)として太政官を担当する体制は一条天皇が即位し、藤原兼家が摂政に就任しても続いた。
また、関係を強化するため、源雅信は、娘・源倫子を花山天皇の皇后にしようとも考えている。
しかし、花山天皇は藤原兼家の策動で退位して7歳の一条天皇に譲位。
一条天皇より16歳年上の娘・源倫子が天皇の后になるのは年齢的に厳しい中、円融天皇が嫌う藤原兼家の4男・藤原道長が2歳年上の源倫子(りんし)へ求婚。
正室・藤原穆子の強い勧めもあり、永延元年(987年)、娘・源倫子(鷹司殿)と藤原道長は結婚した。
988年、藤原道長の長女・藤原彰子が源雅信の土御門殿で生まれている。

源雅信邸(土御門殿)に出仕していた歌人の赤染衛門は、源倫子と娘・藤原彰子に仕えている。
赤染衛門が作者?とされる「栄花物語」には源雅信の姿も描かれている。

993年、藤原道長の出世を見ないまま源雅信は薨去。(74歳)
最終官位は従一位・左大臣。
死を聞いた人々はみな恋慕したとある。
祖父の宇多天皇や父・敦実親王ゆかりの仁和寺に葬られた。


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土御門殿は源雅信が建てた邸宅で、死後、藤原道長が館主となった。

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