河村城の歴史をよむ~平安時代末期から戦国時代末期までの変遷

河村城

河村城とは

河村城は相模(神奈川県)・甲斐(山梨県)・駿河(静岡県)の三国の国境が交わる交通の要衝に位置し、急な斜面と入り組んだ谷が織りなす自然の地形を十分に生かして築かれてている。
河村城は12世紀後半の築城から始まり、1590年(天正18年)の小田原攻めで廃城となるまで、約400年にわたって変遷をとげた貴重な山城である。
現在、史跡公園として整備されており、廃城となった戦国時代末期の城の姿をよく観ることができる。



本稿では、約400年にわたる河村城の歴史を文献史料から紐解いていく。

築城から南北朝・室町時代の戦乱との関り

河村城は平安時代末期に、波多野遠義(とおよし)の次男である河村秀高によって築かれたと伝えられているが、それを裏付ける確かな史料はない。
ちなみに、波多野氏は藤原秀郷を祖とする藤原一族で、平安時代から相模国(神奈川県)秦野地方に大きな勢力を持っていた。



1180年(治承4年)の石橋山の戦いでは、河村三郎義秀(秀高の子)ら河村一族は平家方の総大将・大庭景親に従ったため、源頼朝が政権を握ると河村秀高は所領を没収された。
それから10年後の1190年(建久元年)、鶴岡八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)に参加した河村義秀は、源頼朝に技量を認められ、本領の河村郷を回復した。

南北朝時代になると、河村城の名が史料に見られるようになり、1352年(観応3年)の北朝方として活躍した三富弥四郎元胤の軍中状に「同十五日河村城御向の時合戦致す事、云々」(『古証文書二』)と、初めて河村城の名が史料に登場する。
南北朝の争乱において河村一族は南朝方に属し、1352年(観応3年)3月には新田義興・脇田義治が率いる6,000余りの軍勢とともに河村城にたて籠った(『太平記』『鎌倉九代記』)。
南朝方は、畠山国清を主将とする北朝方の5,000余騎の猛攻によく持ちこたえるが、、翌1353年(観応4年)3月、岸の南原において惨敗、河村一族の大半が討ち死にし河村城も落城した(『太平記』)。



室町時代になると河村城は鎌倉公方の管理下になり、1438年(永享10年)の永享の乱において、鎌倉公方・足利持氏と対立した管領・上杉憲実は、近習の長尾実景・大石重仲から河村城に身を寄せるように進言されるが受け入れず、上野国(群馬県)の平井城に退いた。
その後間もなく、足利持氏方の大森伊豆守憲頼(のりより)が河村城を攻め落とし、以後、大森氏が河村城を管理していたと考えられるが、確かな史料はない。

戦国時代・後北条氏の支城としての役割

1495年(明応4年)、伊豆国(静岡県)の韮山城に居た伊勢新九郎長氏が大森藤頼を小田原城より追放すると(『鎌倉五代記』『北条五代記』)、河村城は再び歴史の表舞台に登場する。
相模国(神奈川県)の勢力図は激変し、後北条氏は小田原城を本城として勢力拡大を図ると、河村城は支城としての役割を果たしている。
1569年(永禄12年)、後北条氏と甲斐(山梨県)の武田氏、駿河(静岡県)の今川氏との間で結ばれていた三国同盟が破れ、以後約3年間にわたり武田信玄の軍勢が相模に侵攻したときは、河村城も緊張を強いられた。

地図

まずは、1569年(永禄12年)12月、新庄(河村新城・山北町川西)・足柄(南足柄市他)・湯沢(山北町中川)以下九ヶ所の城が武田信玄の軍勢に開城させられたときである(『鎌倉九代記』)。
次いで、1570~1573年(元亀年間)に後北条氏と武田氏が深沢城(静岡県御殿場市)をめぐって攻防戦が行われたときである。

河村城も甲州へ通じる西丹沢方面からの敵を抑える城として重視され、 後北条氏は1571年(元亀2年)3月、河村城・足柄城普請のため磯邊(相模原市磯部)から人足2人を、9月にも河村城普請のため、田名(相模原市)から人足を出させているる。
特に後者については「河村城御城普請未熟の間、人足四人御雇い候、来る晦日右城へ相集まり、朔日早天より二日まで普請致すべし。……」と史料にあり(『神奈川県史』資料編3 8063)、城の普請を急がせるあわただしい様子が分かる。



1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原攻めにおいて、河村城は足柄城・浜居場城(南足柄市内山)などとともに小田原城の防衛態勢の一翼を担った。
残念ながら、河村城でどのような戦いが行われたかを知ることができる史料はないが、小田原城の開城後、河村城は廃城となったと考えられる。

河村城の現状

河村城の平安時代末期の築城から始まり、南北朝・室町時代の戦乱を経て、戦国時代には後北条氏の支城としての役割を果たして廃城となった。
廃城後も現在に至るまで、あまり手が加えられることなく、遺構や郭(くるわ)の配置などがよく残されている。



1989年(平成元年)から6年をかけて、発掘調査などの調査研究と、その成果に基づく整備が行われ、1994年(平成6年)5月に「河村城址歴史公園」が誕生した。1996年(平成8年)に神奈川県内の山城としては初めて県の史跡に指定され、2003年(平成15年)には「河村城跡史跡整備マスタープラン」が策定され現在も整備が進められている。

(寄稿)勝武@相模

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