鎌倉・常栄寺【桟敷の尼】印東祐信の妻~日蓮に「ぼたもち」をあげて命を救った?

鎌倉・常栄寺

鎌倉・常栄寺とは

鎌倉・常栄寺(じょうえいじ)は神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の寺院です。
本尊は三宝祖師で、通称「ぼたもち寺」(牡丹餅寺)の名でも知られます。
鎌倉幕府の初代将軍となった源頼朝は、由比ガ浜を眺めるための桟敷(展望台)を、鎌倉・常栄寺の裏山に設けたとされます。
なんでも、千羽鶴の放生会を見学するために、桟敷を作ったとあります。


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このこの旧蹟に居を構えたのが、印東氏となります。
その印東氏(いんとうし)の話しては、下記のようなものがあります。

安房・清澄寺にて得度した日蓮(にちれん)は、1253年に鎌倉の松葉ヶ谷御小庵に入ると、布教活動を始めます。
しかし、法華経を広めるために、他の宗派を否定していた日蓮は、蒙古襲来も予言して北条時頼に献じたため、鎌倉幕府からも危険視されます。
1261年には、伊豆の伊東へ流罪となりますが、1263年、北条時頼によって許されると、安房に戻ったあと1267年頃、再び鎌倉に入っています。
ただし、再び国難を訴えたため、人民を混乱に陥れる懸念から、鎌倉幕府は、再度捕えて、今度は、処刑することにしました。
侍所・所司である平頼綱が、捕縛を担当し、1271年9月12日、日蓮を龍の口の刑場へと連行しようとしています。

その龍の口刑場へ連れていかれる際に、昔、桟敷があった付近に住んでいた老婆が、裸馬に乗せられて護送される日蓮に、胡麻入りの「ぼた餅」を、鍋ぶたにのせて、献上したと言います。
老婆・桟敷の尼は、単なる庶民の老婆ではなく、鎌倉御家人である印東祐信の母、妙一尼(みょういちに)と、妻・妙常日栄とされます。

鎌倉・常栄寺

その後、刑の執行の際、江の島のほうから、強烈な光り物が現れ、太刀を持った武士の目が、くらんだと言う事で、刑執行は中止となり、佐渡ヶ島への流罪に変更となりました。
日蓮は、厚木・金田にある、本間重連の屋敷に逗留し、新潟方面へ向かったようです。
妙一尼は、日蓮の佐渡流罪中に下人を付けて補助したり、身延に衣を送ったとの記載もあります。

このように、日蓮が救われたのは、印東左衛門尉祐信の妻、または妙一尼と言った「桟敷尼」と称される女性が「ぼた餅」を捧げたからだと言う話も出て、鎌倉の常栄寺で語り継がれている次第です。
なんでも、片瀬の龍口寺付近が、鎌倉での処刑場になっていたようです。
ただし、同様の話が、龍口寺のすぐ近く、腰越の法源寺にも伝わっていますが、老婆が、急ぎ差し出した握り飯が転がり、砂にまみれて、ゴマをまぶした「ぼたもち」のようになったと伝わります。


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実際に、蒙古襲来(元寇)は、1274年と、1281年と2度発生。
再度、許された日蓮は、南部実長から寄進を受けて、身延山に草庵を結び、身延山久遠寺の日蓮宗へと発展していきました。
晩年、病を得た日蓮は、病気療養の為、常陸の湯に向かう途中、武蔵・池上にある池上宗仲の屋敷(池上氏館、現在の池上本門寺)にて亡くなっています。

桟敷の尼とは

桟敷の尼は、生まれが、1187年とされますが「さじき女房」と言ったほうが妥当のような気が致します。
出自ですが、比企能員の妻の妹という説があります。(比企能本の妻が姉ともある)

比企能員の正室は、渋河兼忠の娘とされ、2022年、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、比企能員の妻の名前は「道」と言う女性で描かれます。
実際には、名前は伝わっておりませんので、桟敷の尼の姉が、渋河兼忠の娘だと、断定ができません。
実際に、比企能員には、子供がたくさんいますので、妻は、何名かいたものと推測され、そのうちのひとりの女性が、桟敷尼の姉と言う事になるのでしょう。
比企能員の妻として、比較的正確にわかっているのは、最初の正室と考えられる、渋河兼忠の娘がいます。
しかし、渋河兼忠の娘は、早くに亡くなったと推測でき、比企能員の妻になった桟敷尼の姉は、後妻や側室であった可能性があります。
不確定ではありますが、比企能員の他の妻・妾としては、この金子氏?とも推測される桟敷尼の姉以外に、児玉党・片山行時(片山与二郎)の娘も妻であった可能もあり、正直、わからないといったところです。
比企一族は、1203年に、比企氏の乱比企能員の変)にて、妻子の多くも命を落としましたので、恐らくは、桟敷尼の姉も、亡くなったと考えられます。

また、桟敷(さじきの)尼と、下記でご紹介する、妙(妙一尼)は、同一人物とする説もあり、余計にわかりにくいです。
ひょっとしたら、妙(妙一尼)と言う老婆(桟敷尼)がまだ生きていて、嫁に来た「さじきの女房」(桟敷の尼)と一緒に、ぼたもちを作ったのかな?とも、想像すると、しっくりくる感じです。

桟敷の尼夫婦の墓

桟敷尼は、1274年11月12日死去。88歳。
法名は妙常日栄。

印東祐信とは

さじきの女房の夫である印東祐信(印東左衛門尉祐信)は、下総国印東庄能戸の領主です。
鎌倉幕府第6代将軍・宗尊親王の近臣ともあります。
工藤一族の伊東成親(伊東四郎成親)が、領すると「印東」(いとう)と、称したとあります。
鎌倉幕府成立の際に功績があった、工藤氏一族の伊東成親が、下総国印東庄能戸を領することになったと考えて良いでしょう。
1183年、源頼朝が、梶原景時天野遠景に命じて、上総広常を謀殺した際に、上総氏は所領である印東荘などは、千葉氏や三浦氏などに分配されています。
この時なのか?、伊東成親も、印東荘の一部を加増されて、子の代から印東氏を称することになったとも考えられます。

千葉一族で大きく勢力を張った印東氏(いんとうし)もいることから、どうしても千葉氏一族の、印東(いんとう)と言うイメージが先行しますが、工藤氏系(伊東氏系)の印東氏は「祐」の字も使っているため、伊豆・伊東の「いとう」さんで、間違いなさそうです。

伊東成親に関しては、吾妻鏡でも3回くらい登場します。
特に、1190年に源頼朝が上洛した際には、八田知家加藤景廉の欄の3名に、伊東四郎成親の名がみられるため、御家人の中でも、決して身分は低くなかったと考えられます。

その伊東成親のあとを継いだのが、下総国印東庄能戸の領主・印東祐昭(印東二郎左衛門尉祐昭、印東次郎左衛門尉祐照)であり、母は、工道祐経の長女(伊東祐時の姉)・妙 (妙一尼) となります。(伊東祐時の娘とも)

日蓮を厚く信仰していた印東氏(伊東氏)でしたから、1261年に、日蓮が流罪となった際には、伊東氏の宗家である、伊東祐光が面倒をみたと言う事になるのでしょう。

ちなみに、工藤祐経の妻のひとりは、千葉常胤の娘で、嫡男・伊東祐時(工藤祐時)と、安積祐長を産んだとする説もあります。
そのため、印東祐信を産んだ、工道祐経の長女(伊東祐時の姉)・妙 (妙一尼)は、千葉介の血も入っているとも言えます。

鎌倉・常栄寺

印東祐信(印東左衛門尉祐信)には、弟がいます。
日蓮の直弟子であり、1番弟子にもなった、日昭(1236年?~1323年)と言う僧侶です。
この日昭は、鎌倉にあった工藤祐経の屋敷跡に、1271年、法華堂(現在の材木座にある鎌倉・実相寺)を建てたことからも、印東氏は、伊東氏(工藤氏)の一族だったことがわかります。

なお、妹?(印東祐昭の娘)は、下総国葛飾郡平賀村の平賀有国(平賀二郎有国)に嫁ぎ、子の日朗(1245年生まれ)は、日蓮の弟子となり、のち、1282年、池上宗仲の協力にて、池上本門寺の基礎を築きました。
この妹は、夫が早世したため、平賀忠治(平賀左近将監忠治)に再嫁し、生まれた子供が、同じく、日蓮の弟子になった、日像(1269年生まれ)と日輪(1272年生まれ)がいます。
日蓮から「妙朗尼」と呼ばれた女性は、この平賀有国と、平賀忠治(平賀忠晴)に嫁いだ、印東祐昭の娘ともされます。

姉?(印東祐昭の娘)は、鎌倉幕府の作事奉行・池上左衛門大夫(池上康光とも?)に嫁いでおり、生まれた武将が、池上宗仲(いけがみ-むねなか)と言う事になります。
日蓮が没したのは、その池上氏館で、1282年の事となります。


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なお、大変興味深い話として、印東祐信は、京都にある御所の「桟敷」を警備する役だったともあります。
弟の日昭上人は、京に登ると、関東申次である近衛兼経(このえ-かねつね)の猶子(ゆうし)・法印になったともされます。
その近衛兼経の娘・近衛宰子(1241年~?)が、鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王の正室(御息所)となって、7代将軍・惟康親王を産んだほか、執権・北条時頼を猶子としました。
この縁もあり、日昭の母である妙一尼が、御所桟敷に住むことができたので、桟敷尼と呼ばれたともあります。
となると、妙一尼が「桟敷の尼」で、嫁である比企能員の妻の妹は「さじき女房」と言ったほうが、妥当な気が致します。

また、曾我兄弟の仇討ちで工藤祐経が討たれ、比企能員も非業の死を遂げるなど、鎌倉幕府では、権力争いが絶えず、妙一尼など、印東氏に嫁いだ女性も、多くの身内を亡くしています。
明日は我が身でして、そのように考えますと、宗教にすがりたくなる気持ちも、わかるような気が致します。
結果的に、命を落とした者を供養するため、寺が建立されたので、鎌倉に寺院が多いのも、よく分かります。

腰越の法源寺との関連

腰越(片瀬)の法源寺にも「ぼたもち」の伝承があり、その場所は、桟敷婆(桟敷の尼)を、金子家の先祖として供養していると言います。
なぜ、供養しているのかは、桟敷の尼の「実家」の菩提寺が、法源寺だからそうです。

色々と諸説あり、詳しいことは不明ですが、比企能員夫人の実家が、金子家だともします。
ただし、前述したとおり、この比企能員夫人は、渋河兼忠の娘とは別の女性である可能性も高いです。


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ちなみに、近くの腰越・本龍寺がある場所は、比企能本の屋敷跡とも、比企高家の屋敷跡ともされます。
比企能本(ひき-よしもと)は、1202年から1286年の僧侶で、比企能員の乱(1203年)の際に、まだ1~2歳の幼子だったため、和田義盛に預けられたて命は救われました。
のち、竹御所の尽力で、鎌倉に戻ることが許され、1253年(建長5年)、比企能本は日蓮に帰依しました。
そして、鎌倉の比企氏館があった比企ヶ谷に、法華堂を創建し、現在の妙本寺へと繋がっており、比企氏の菩提寺は、鎌倉・妙本寺です。
近くの本龍寺は、1302年の開山ですが、日行(妙音坊日行)と言う日蓮宗の僧侶が開きました。
その日行が、1303年に開山したのが、法源寺と言う事になり、檀家として金子氏がいる訳です。
その金子家が、桟敷の尼の実家筋であると言う事になりそうですが、桟敷の尼(さじきの女房)がいた時代には、姓名は違っていたとも考えられますが、全く不明といったところです。

関東での金子氏と申しますと、武蔵七党・村山党の一族である金子氏が知られます。
しかし、村山党の金子氏の本拠は、武蔵国入間郡金子郷でして、相模ではありません。
もちろん、相模にも領していた金子氏はおりまして、例えば、平安時代末期には、金子十郎なる武将が、相模・篠原城 (相模・金子城)に見られます。
金子太郎なる武将が、1213年、和田合戦で和田義盛に味方して、討死しているのは、見受けられます。
ただし、金子太郎だけでは、どの金子氏は不明であり、藤沢近く、鎌倉近くでの金子氏の存在に関して、当方の調べでは、これまで、確認できておらず、わからないといったところです。
もとは、違う姓名を称しており、鎌倉幕府の後年に、金子氏へと名を変えた可能性も捨てきれません。

いずれにせよ、桟敷の尼(桟敷尼)の鎌倉・常栄寺は、比企能本が創建した妙本寺(比企氏館跡)から、すぐ南の場所にありますので、桟敷の尼と比企氏は、関連があったことは、伺えます。
比企能本の母(比企能員の妻)は、三浦氏の娘とされ、法名が「妙本」です。
簡単に申し上げれば「妙本尼」と呼ばれていた可能性があり、そうなると、印東氏の女性も、妙一尼と言うように、同じ「妙」の字を使っていますので、ひょっとしたら、桟敷尼の姉が、妙本尼(比企能員の妻)なのかも知れません。


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その後、江戸時代の初期、1606年に、紀州藩の家老・水野重良の娘で、日蓮宗に帰依していた日祐尼(慶雲院日祐)が開基したのが、ここでご紹介した鎌倉・常栄寺となります。

わかりにくいので可能性を「まとめ」ますと下記の通りです。

日蓮に関与している印東氏は、伊豆最大勢力を誇った工藤氏(伊東氏)の一族
桟敷の尼(桟敷尼) ~ 日昭の母・妙一尼(工道祐経の長女)/妙一尼御前
さじきの女房 ~ 印東祐信の妻・妙常日栄(金子氏の娘?、比企氏に嫁いだ姉がいる)
妙朗尼(みょうろうに) ~ 平賀有国と平賀忠治(平賀忠晴)に嫁いだ、印東祐昭の次女
比企能本の母は妙本 ~ この妙本が、さじき女房(妙常日栄)の姉か?

※可能性であり、上記がすべて正しいと宣言する訳ではありません。

交通アクセス

鎌倉・常栄寺への行き方ですが、鎌倉駅の東口から歩いて、徒歩約10分くらいです。
鎌倉・常栄寺の駐車場はありません。
近くのコインパーキング利用となります。
鎌倉・妙本寺とセットでどうぞ。

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