鎌倉・妙本寺(みょうほんじ)の解説~一幡の袖塚・比企一族供養塔・竹御所の墓・蛇苦止堂【鎌倉・比企氏館】

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鎌倉・妙本寺

鎌倉・妙本寺

妙本寺(みょうほんじ)は、神奈川県鎌倉市大町の比企谷(ひきがやつ)にある寺院です。
鎌倉幕府が成立した際に、源頼朝を大きく支えていた比企氏の館が、この比企谷に設けられました。
源頼朝の乳母だったのが比企尼で、鎌倉に迎えた場所でした。

鎌倉・妙本寺

そして、比企氏の養子が、有力御家人の比企能員と言う事になり、同じく、比企ヶ谷に屋敷を構えたようです。
1192年には、同じ一族である比企朝宗の娘・姫の前が、北条義時に見初められて妻となり、のち、次男・北条朝時、3男・北条重時を産んでいます。
比企能員(ひき よしかず)の娘・若狭局は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の妻妾となり、嫡男・源一幡や、竹御所を産んでいます。
1199年、源頼朝が死去すると、比企能員は「十三人の合議制」のひとりにも加わり、梶原景時の静粛にも加担しました。


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しかし、1203年、源頼家・比企氏は、北条時政と権力争いとなります。
北条氏の館に呼び出された比企能員は、天野遠景仁田忠常らの手勢によって、刺し殺されました。
そのため、比企一族は、一幡の屋敷である「小御所」に立て籠りましたが、北条勢の攻撃を受けて、源一幡(6歳)・若狭局(讃岐局)や比企一族は自害しています。
比企能員の嫡男・比企余一兵衛尉は、女装して逃れようと試みましたが、道端にて捕らえられ斬首となり、比企一族は滅亡しました。(比企能員の変・比企の乱)
まだ、幼かった竹御所(たけのごしょ)は、祖母・北条政子が保護したようですが、後ろ盾を失った2代将軍・源頼家は北条時政によって修善寺に幽閉されて、間もなく暗殺されます。

その比企氏屋敷があった跡地に、のち建てられたのが、鎌倉・妙本寺(みょうほんじ)と言う事になります。
総門の前にある石塔は、祖師堂前にあったものを、江戸時代の1785年(天明5年)に、移転させたようです。

妙本寺・総門

その裏には、珍しい、七角形の建物である塔頭・大円坊がありますが、現在は、比企谷幼稚園の園舎として活用されています。

塔頭・大円坊

鎌倉・妙本寺の開基は、1260年とされ、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者・比企能本(比企大学三郎能本)によって、創建されました
比企能本(ひき よしもと)は、比企の乱の際、まだ2歳だったことから、和田義盛に預けられ、出家すると、都で順徳天皇に仕えていました。
そして、姪の竹御所の計らいにて、、鎌倉に戻ることができ、比企氏の供養をするため、法華堂を建てたようです。
山号の「長興」は比企能員の法名、寺号の「妙本」は比企能員の妻の法名となります。

妙本寺

みどころとして、現在の境内には、比企一族の供養塔、源頼家の側室・若狭局を祀る蛇苦止明神、源頼家の子・一幡の袖塚があります。

一幡の袖塚

焼け跡から出てきた、菊花の模様の小袖を、乳母が、6歳だった源一幡の着物であると認めたことから、一幡の袖が祀られているとされます。

一幡の袖塚

大輔房源性が、一幡の小袖を見つけ出したともされ、旅をした高野山奥の院に奉納したと言います。
なお、一幡は、母・若狭局に連れられて、逃げましたが、北条義時の郎党に捕まり殺害されたともあります。

比企一族供養塔

一幡の袖塚から、すぐ見えるところにありますが、祖師堂の右横に、並んでいるのが「比企一族供養塔」になります。

比企一族供養塔

讃岐局蛇苦止霊之墓

比企一族供養塔よりも、右奥の少し高いところにある墓所は、讃岐局蛇苦止霊之墓となり、イチョウの古木の下にあります。

讃岐局蛇苦止霊之墓

妙本寺においては、若狭局のことを、讃岐局と呼んでいるようでして、讃岐局と若狭局は同一の女性と考えられます。
実際に、若い頃は若狭局で、あとから讃岐局と呼ばれていたようです。

竹御所の墓

竹御所の墓は、祖師堂がある場所からは見えない、少し高く・奥へ登った平地にあり、アプローチが少しわかりにくいです。
下記の写真にある、祖師堂の左わきへ入って行きます。

竹御所の墓への行き方

すると、万葉集研究遺跡の石碑がある階段が見えますので、カーブしながら登って行きます。

万葉集研究遺跡の石碑

<注釈> 万葉集研究遺跡の石碑は、新釈迦堂(しんしゃかどう)の僧・仙覚(せんかく)が、万葉集について熱心に研究していたことから建てられています。

階段から入り、途中、右に行くと、祇園山ハイキングコースとなっているようですが、左気味に、歩いて行くと、広い墓地に出ます。
この墓地がある場所が、竹御所跡と考えられますが、その墓地の最奥部に、竹御所の墓があります。

竹御所の墓

妙本寺の寺伝に従うと、源媄子の墓(みなもとのよしこ)墓と言う事になります。

更に墓地の左側(西側)には、佐竹やぐらがあり、室町時代前期、鎌倉公方・足利持氏によって追撃された、佐竹与義(上総介入道常元)主従13名が自刃した場所とされます。

蛇苦止堂

蛇苦止堂へは、総門を入った参道の途中から、北に延びる道路を入って、階段を上った先(下記写真)にあり、境内の一角ではありますが、境内からは行けないようです。

蛇苦止堂

当方のオリジナル地図にて、場所をポイントしていますので、ご確認頂けますと幸いです。

蛇苦止堂は、若狭局を供養する建物です。

蛇苦止堂

若狭局は、蛇苦止の池に身を投げて自害したともされます。

蛇苦止の池

池ではなく、家宝を抱えて井戸に身を投げたともあり、現在も古井戸「蛇苦止の井」があります。

蛇苦止の井

1260年、比企判官能員の女子が、のち北条政村の娘に、霊となってとりついたため、日蓮によって供養され、ここに祀られました。

交通アクセス

鎌倉駅から歩く場合、東口を出て約500m (徒歩7分)で、総門にたどりつけます。
クルマの場合ですが、今回、滑川の夷堂橋近くにあるコインパーキングに止めましたが、妙本寺の参道を、どんどん奥へと上がって行くと、二天門の手前あたりに数台、止められそうです。

鎌倉・妙本寺の見学所要時間は、約30分~50分といったところです。

春にはサクラやカイドウ、7月にはノウゼンカズラが有名で、秋深くには紅葉も素晴らしいようです。

このあとは、比企氏とも関連あると発見した、近くの鎌倉・常栄寺に向かいました。

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