満福寺の解説【腰越状】源義経と弁慶~藤沢周辺の源義経関連史跡

満福寺

寺院 : 満福寺
周派 : 真言宗大覚寺派
本尊 : 尊薬師如来
創建 : 744年
開基 : 行基

満福寺

鎌倉・満福寺

鎌倉・満福寺(まんぷくじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある真言宗・大覚寺派の寺院です。
創建は、744年で行基とされ、鎌倉では、かなり古い時代の寺となります。
<注釈> 鎌倉・杉本寺は、734年創建。
満福寺がある場所は、江ノ島に近い、腰越(こしごえ)と言うところにあります。


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鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟に、源義経(みなもと-の-よしつね)がいます。
この源義経は、平氏討伐にて、壇ノ浦の戦いにて、平氏を滅ぼすと言う、大きな武功をたてました。
しかし、兄・源頼朝の許可を得ずに、京にて、後白河法皇から勝手に左衛門少尉、検非違使の任官を受けるなど、数々、吐出した行動をとってしまいます。
鎌倉での仲介を受けずに、天皇から恩賞を直接受けたのであれば、その後の政権は、天皇であることを、認めてしまうことにもなりかねません。
他の関東武士も、同様に任官を受けたりしたため、許可なく鎌倉に戻ることを禁止しました。


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ところが、1185年、捕虜にした平宗盛平清宗の父子を護送して鎌倉に凱旋するべく、相模に入ったのが源義経でした。(当初は源義経だけ許されていたとも)
しかし、同じ源氏一門と言えども、数々の問題を起こしていた源義経は、源頼朝の命に従わないとの理由で、鎌倉に入ることが許されませんでした。
平宗盛と平清宗のみ鎌倉に入っています。
梶原景時による讒言もありましたが、同じく平氏討伐で大将を務めた源範頼からも、源義経の越権行為や命令違反があると言う不満が、源頼朝のもとに届いていたようです。

腰越の満福寺

1185年5月24日、源義経は、この腰越の満福寺に留まり、弁明の文書を書きます。
そして、源頼朝の側近・大江広元に、弁明書が届けられたわけですが、この手紙を「腰越状」と言います。

腰越状の内容

腰越状の記載内容としては、下記の通りです。

左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。
私は(源頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。
ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。
つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと言われています。
ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。
こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。
私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪業のためでしょうか。
悲しいことです。

そうはいうものの、亡き父上の霊がよみがえって下さらなければ、誰が悲嘆を申し開いて下さるでしょうか。
憐れんで下さるでしょうか。
今更改まって申し上げるのも愚痴になりますが、義経は身体髪膚を父母に授かりこの世に生を受けて間もなく父上である故左馬の頭殿(源義朝)が御他界され、孤児となって母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ時がありませんでした。
甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われました。
しかしながら、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭いませんでした。
また甲冑を枕とし、弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いである事の他に他意はありません。
そればかりか、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。これに勝る名誉はありません。
そのとおりと言えども、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。
ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません。

我が国は神国であります。神様は非礼をお受けにはなりません。
他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです。
便宜を図って(源頼朝の)お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。
それによって私も年来の心配事も無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。
言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。
ご賢察くださることを願います。
義経恐れ謹んで申し上げます。

元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経

進上因幡前司殿

弁慶が書いたとされる、草案(下書き)が、腰越・満福寺の有料拝観にて、見学できます。

腰越状は、公文所別当・大江広元(因幡前司) から、源頼朝の手に渡ったとされますが、結局、源義経は鎌倉入りを許されていません。
源義経の功績は大きいですが、他の武将の活躍の場を奪ったとも言えるほど目立ちましたので、源頼朝も、自身の立場を失いかねないと、感じたのかも知れません。

腰越状

6月9日、源頼朝は、平宗盛と平重衡との面会を終え、帰洛される際に、源義経に同行を命じました。
これを、源義経は深く恨み「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放ったとされ、源頼朝は、源義経の所領を全て没収しています。

源義経が滞在したと言う腰越・満福寺の境内には、弁慶の腰掛け石や、手玉石など、源義経や弁慶ゆかりの品々が、多数展示されています。

弁慶の手玉石

それから4年後、源義経は「首」だけになって、再び、腰越にやってきました。
1189年6月13日、和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦にて、首実検が行われています。
そして、源義経の首は、藤沢にて供養され、現在、藤沢・白旗神社にて祀られています。
近くに、義経首洗井戸もあり、位牌は藤沢・荘厳寺にあると言います。


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2021年2月12日早朝、満福寺にて火災が発生しました。
大型消防車も入れない場所でもあり、心配されましたが、延焼したのは多目的施設の義経庵(ぎけいあん)だけで済み、幸いにも本堂などは無事だったようです。

満福寺の境内は無料・自由ですが、本殿内部などは有料拝観になります。
受付時間は、朝9時~17時です。

満福寺が営業している茶房・宿坊「義経庵」は、ランチ営業していれば、江ノ島名物の「しらす丼」などを頂けます。

交通アクセス

江ノ島電鉄の腰越駅から徒歩4分の距離です。
駐車場はあるにはあるのですが、狭い境内の奥にある墓地手前に止めると言う感じで、数台分となります。
そのため、満福寺の入口にあたる、江ノ電の「踏切」手前にある、コインパーキング利用がお勧めです。
なお、その道路も狭くて、大通りから入る所も、わかりにくいので、当方のオリジナル地図にてよくご確認の上、お出かけ頂けますと幸いです。

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