狭山・清水八幡宮~入間川で討死した木曾義高(源義高・木曽清水冠者義高)を祀る地

狭山・清水八幡宮

狭山・清水八幡宮とは

狭山・清水八幡宮(しみずはちまんぐう)は埼玉県狭山市入間川にある神社です。
鎌倉初期の武将・源義仲(木曾義仲)の長男である源義高(木曾義高、木曾清水冠者義高)を、神様として祀っています。

狭山・清水八幡宮

父・木曽義仲は、源頼朝と和議を結ぶと、人質として子の木曽義高を鎌倉に出していました。
源頼朝も、長女・大姫と婚約させています。
しかし、翌年の1184年、早々に和平も破綻し、攻撃を受けた父・木曽義仲は、近江国粟津原で討死します。
その後、源頼朝は、後顧の憂いを絶つため、木曾義高を処刑することを決めました。



これを知った北条政子と大姫は、木曾義高の逃走を手助けしました。
木曽義高は、木曾氏の故郷になる武蔵国男衾郡の菅谷館へ、逃れようとしましたが、入間川の八丁の渡しで、鎌倉勢・堀親家(堀藤次親家)の追っ手に捕まり、
藤内光澄によって首をとられました。享年12。

首を取られた、源義高の胴体は、里人によって、入間河原に葬られたと言います。
その話を聞いた北条政子が、後日、畠山重忠らに命じて、墓の上に、木曽義高を祀る社を建てたのが、狭山・清水八幡宮の始まりとされます。
北条政子も、自らお参りにきたと言いますが、大姫が寝込んでしまっており、その病気回復も願ってのことだったのでしょう。



鎌倉幕府滅亡後、鎌倉公方になった足利基氏が、約9年間、入間川御陣(入間川御所)として鎌倉府の機能を移転させていましたが、狭山・清水八幡宮の付近であったともされます。

しかし、1402年8月、入間川は大洪水となり、社殿などが流出。
その後、再建されることはなく、発見されたと言う石祠は、成円寺に移転となったようです。
ただし、その成円寺も、明治初期に廃寺となり、現在の狭山・清水八幡宮がある場所に、更に移ったと言う事らしいです。
現在の建物は、1959年(昭和34年)に再建されました。
毎年5月の第3土曜日に、大祭が行われるとの事です。

狭山・清水八幡宮

木曽義高(源義高)の墓(胴塚)があった場所は、洪水で地形が変わってしまい、どこだか、わからないといったところでしょう。

目の前は、大変交通量が多い、国道16号になっており、私も、何回か通行したことがありますが、ここに木曽義高の神社があるのは最近のことでした。

清水冠者源義高終焉の地と言う標柱がありますが、他に見るべきものはとくにありません。
駐車場は無いのですが、すぐ脇が集会所(公民館)になっており、16号からその集会所の手前に1~2台ほどの駐車スペースがありました。
国道16号に止めるのは、大変危険ですので、2分ほどの短時間、止めさせて頂きました。
狭山・清水八幡宮がある場所は、当方のオリジナル関東地図から検索して頂けると、ピンポイントでご確認頂けます。



ちなみに「清水冠者」と呼ばれた理由ですが、まず「冠者」(かんじゃ)と言うのは、元服すると冠を与えられたと言う事であり、一人前としてデビューした若者「成人した男子」と言う意味になります。
木曽義高は「清水冠者」(志水冠者)と呼ばれましたが、父・木曽義仲も若い頃は同じく「清水冠者」と呼ばれていました。
清水(しみず)と言うのは、木曽義仲・木曽義高が生まれた場所、埼玉県比企郡嵐山町鎌形の古い地名といったところでしょうか?
少し離れますが、嵐山にある鎌形八幡神社には、木曽義仲の産湯井戸があり、清冷水を汲んで産湯として使ったと伝わります。

あと、木曽義高の墓と伝わる木曽塚が、神奈川県の大船・常楽寺の裏山にありますので、そちらは首塚?と言う事になるでしょうか?

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