硯山・長福寺の歴史解説(千葉県いすみ市)

硯山・長福寺

硯山・長福寺とは

硯山・長福寺 (ちょうふくじ)は、千葉県いすみ市下布施にある天台宗の寺院です。
硯山は山号で「すずりやま」と読みます。
創建はかなり古く、平安時代初期の807年(大同2年)に、最澄が草庵を開いたとある古刹です。

硯山・長福寺

山号の硯山は、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が与えたものとされます。
なんでも、平家追討の書状を長福寺にて記載したと伝わります。
その際に使用した「硯」(すずり)が、素晴らしかったので、硯山の山号を頂いたとも・・。
長福寺のマキは 「筆掛の槙」とされ、源頼朝が書状を記載した際に、筆を掛けたと伝わります。

硯山・長福寺

なお、長福寺さんの説明によりますと、源頼朝が布施を訪れたのは、上総広常を攻略したあととございます。

1183年12月20日、この布施の領主である布施殿台城・上総広常は謀反の疑いとなり、源頼朝の命にて、梶原景時天野遠景が鎌倉で殺害しました。
その後、上総氏の領地は、千葉氏や三浦氏に分配され、千葉常秀が上総氏を継承しています。
確かに、上総広常が命を落とした辺りから、平家討伐は本格的となり、1184年正月には、一ノ谷の戦いとなりました。


スポンサーリンク



1184年1月、上総廣常が存命していた際に、願成就のため鎧一領が納められていると、上総・一宮の玉前神社から鎌倉に報告があり、源頼朝は、籐判官代邦通と一品房を使者として上総に派遣しています。
そして、鎧が鎌倉に届けられると、その中に「源頼朝の運を祈る願い書」が、入っており、上総広常の無実がわかりました。
ただ、1184年1月20日には木曽義仲との宇治川の戦い・粟津の戦いと、平家などとの合戦の最中でして、鎌倉にて指揮を執る源頼朝ですので、鎌倉を離れる訳にはいきません。
そのため、上総国など、遠方まで出張する余裕はなかったと考えられます。
もちろん、1185年、壇ノ浦の戦いのあと、上総を訪問したことがあるのかも知れませんが・・・。
吾妻鏡、全部調べてみないと、わかりません。


スポンサーリンク



なお、硯山・長福寺さんでは、筆供養・硯供養も行って頂けるようです。
このように、硯山・長福寺さん自体は、閉鎖的な事もなく「壱万巻般若心経写経行」という、写経にも対応して頂けているようですので、是非、お立ち寄り頂ければと願っております。

交通アクセス

クルマの場合、山門付近に、未舗装の空き地が広くとってあり、駐車スペースになっていました。
ただ、アクセス道路は、狭い道となっています。

駐車場などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
スマホで表示して、検索窓から探し、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

上総広常の解説~源頼朝に最大勢力として味方した上総介広常
名熊の二本杉とは「源頼朝が差したハシが育った2本の杉?」

フィードバックする
スポンサーリンク
スポンサーリンク

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。