横手城址

横手城址

横手城址(よこてじょうし)について

〒013-0012 秋田県横手市城山町29−1所在の
横手城址について紹介します。
横手城(よこてじょう)は、秋田県横手市にあった日本の城です。
構造は山城。朝倉城、阿櫻城とも呼ばれています。
現在、城跡は横手公園として整備されており、模擬天守が建てられています。
【歴史】
横手城の築城時期は、諸説ありますが、
戦国時代には、小野寺配下の横手氏・大和田氏・金沢氏が
横手城を拠点にして反抗しましたが鎮圧されています。
その後、小野寺氏は横手に本拠を移したそうです。

横手城は土砂崩れの防止と斜面に敵兵が滑って
よじ登れないようにするために韮(ニラ)を植えたため、韮城とも呼ばれました。

関ヶ原の戦いの時、当時の城主であった小野寺義道は、
上杉景勝に通じたことより徳川家康に西軍方とみなされたため
慶長6年(1601年)に改易され、一時的に最上氏となります。
慶長7年(1602年)、久保田城佐竹義宣が転封されると
横手城も佐竹氏の所有となり、城代が入れられました。
城代には伊達盛重、伊達宣宗続いて須田盛秀が入り、
寛文12年(1672年)に佐竹氏一門の戸村義連(戸村義国の嫡孫)が入城して以降、
代々「十太夫」を称す戸村氏の宗家(戸村十太夫家)が明治まで務めました。
横手城代「とむらくん」としてキャラクターにもなっています。
元和6年(1620年)、
一国一城令により久保田藩領でも支城が破却されましたが、
横手城を重要な拠点と考えた佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れたそうです。
元和8年(1622年)、
当時江戸幕府年寄で下野宇都宮藩主の本多正純
宇都宮城釣天井事件でこの地に流罪され、
寛永14年3月10日(1637年4月5日)に亡くなるまで過ごしました。
江戸時代末期、戊辰戦争の際には、
東北地方では佐竹氏は孤軍官軍側につきます。
陸奥仙台藩と出羽庄内藩の軍勢が、
戸村大学(義効)の籠城する横手城を攻撃し
慶応4年8月11日(1868年9月26日)の夕方に落城しました。

明治4年(1871年)に廃城となりました。
明治12年(1879年)に戊辰戦争で戦死した22人の霊を慰めるため
焼け残った城の資材を再利用して本丸跡に秋田神社が建立されました。
二の丸跡には、
昭和40年に三層の「天守閣様式の展望台(通称:横手城)」が建てられました。
本来の横手城に天守はありませんでしたが、
太平洋戦争後の昭和40年(1965年)に、
郷土資料館と展望台を兼ねて
二の丸跡に岡崎城をモデルに模擬天守が建設されたのです。
なお、この天守は、東北地方における模擬天守として初めてでした。
横手城跡は、現在横手公園として整備されました。
城址南東の一角に「宇都宮釣天井」で知られる
「本多上野介正純の墓碑」があり、
北側には「平和観音像」、
さらに本丸跡には焼け残った
横手城の遺構を使って建立された「秋田神社」などがあります。
ここからは、横手盆地が一望のもとに眺められます。

横手公園の案内看板

春には桜、秋には紅葉が楽しめます。
雪まつりの時には模擬天守がライトアップされるようです。
また「かまくら」が造られます。
横手公園のシンボルとなっている模擬天守ですが、
内部は郷土資料館と展望台となっておりますが、
冬季休館です。
横手城展望台に、旧・横手市の市街地を望む方向にライブカメラが設置されています。
先着順でカメラのズームアップ・ズームダウンと、
方向の微調整をすることができるそうです。
【アクセス】
<鉄道>
奥羽本線横手駅から徒歩約30分

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