石垣山城「築城の謎」~発掘調査の成果から築城背景を探る~

石垣山城「築城の謎」

石垣山城の特徴

豊臣秀吉小田原攻めの本拠として築いた石垣山城は、関東で初めての総石垣の城であることが最大の特徴である。
その石垣の形態は自然石を割って積み上げ、そのすき間に小石を詰め込んだ野面積みが大半であるが、南曲輪南面の隅角部には算木積の技法も見られる。
中でも、井戸曲輪の石垣や石塁は、野面積みの形式として極めて完成度の高い水準に達している。
こうした石垣の構築には1580年(天正18年)7月11日付けの豊臣秀吉朱印状に「穴太三拾五人被返遣候、‥‥」とあり、「穴太衆」と呼ばれる近江の石工職人が関わっていたことが推測できる。


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石垣山城の縄張りについては、1720年(享保5年)に作成された絵図『太閤御陣城相州石垣山古城跡』(以下、『古絵図』)や測量調査の成果などによると、南北約550m、東西275m内の範囲に次のような曲輪(くるわ)が配置されている。
南北方向の尾根の最高地点に「本城曲輪」と天守台、その南に西曲輪と大堀切を隔てて出城、北に「馬屋曲輪」や「北曲輪」、「井戸曲輪」などが位置し、「本城曲輪」の東に「南曲輪」などの小規模な曲輪群が存在する。
城道は「井戸曲輪」の北方から「馬屋曲輪」を経て「本城曲輪」へ至るルートと、「南曲輪」から「本城曲輪」へと至る東口ルートの2本があり、城内の通路には枡形(ますがた)構造を持つ門が設置されていたことも確認できる。

大手口については、『古絵図』に「南曲輪」の北東隅櫓台跡(中門)を「大手門跡、道幅四間」、北口の「井戸曲輪」の西側を「裏門跡」とあり、城の東側に位置していたと考えられるが、「井戸曲輪」がある北口を大手口とする説もある。

発掘調査等の成果

石垣山城では、1988年度(昭和63年度)から1990年度(平成2年度)にかけて測量調査や発掘調査が行われ、次のような成果をあげている。
<1988年度の測量調査>
*各曲輪の高低差が明確化
*門跡とみられる地形、「西曲輪」南西端と「南曲輪」北端に櫓台の痕跡が確認
<1989年度の測量調査>
*大手口とされる東口城道外門・中門、西曲輪東門で『古絵図』と現状の地形との相違が確認
<1989年度の発掘調査>
*天守台や櫓台跡周辺などから軒平瓦1点、丸瓦片15点、平瓦片50点の計66点の瓦が出土
*「本城曲輪」の天守台において、経15㎝程の扁平状の円礫からなる礫床(れきしょう)と、礎石と考えられる3点の石が検出
<1990年度の天守台の実測調査>
*天守台の崩落石の範囲が、『古絵図』が示す数値と異なることが確認
*石垣に使用の石は不整形な安山岩で、矢穴が確認できないことが判明


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以上の調査成果から、文献史料や絵図類、表面観察では分からなかった石垣山城の特徴が明らかになった。
まず、石垣に用いた石は不整形で矢穴がないことから、切り出しや加工したものではなく、付近から容易に採取できる石であると考えられる。
また、天守台の礫床については、豊臣秀吉の朝鮮出兵時の本拠である肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の羽柴秀保や木下延俊の陣屋の一部にも玉石の礫床が確認されており)、秀吉が築いた城郭や陣屋との関連性が指摘できる。

天守台とその周辺から総数約2,400点に及ぶ瓦片が採集されており、瓦葺きの天守や櫓の存在が存在したことが推測できる。
の割合は軒丸瓦1%、軒平瓦1%、丸瓦三1%、平瓦67%と若干の鬼瓦である。
その中でも、「天正十九年」の銘をもつ平瓦片は、1961年(昭和36年)に天守台から採取した「辛卯八月日」銘の平瓦片とともに、石垣山城の築城意義を考える上で貴重な資料である。

石垣山城の築城意義

石垣山城は豊臣秀吉による小田原攻めの本拠として、関東で初めて石垣と天守、瓦葺きを特徴とする「織豊系城郭」として築城された。
一夜城の伝承は、石垣山城が「見せるための城」という特徴を最大限生かして、小田原城に籠もる後北条勢に対して優位に立ち、戦意を喪失させるという意図の下に築城されたことを示している。

豊臣秀吉は小田原城の開城後、1580年(天正18年)7月14日に石垣山城を出発して奥州平定に向かい、一度8月17日に石垣山城に戻るが、8月22日には駿府(静岡県)へ引き返した。
その時点で、石垣山城は小田原攻めの本拠(「陣城」)としての役割を、築城工事も完了していたはずである。
しかし、「辛卯八月日」(1591年8月)銘と「天正十九年」銘を持つ二片の文字瓦は、小田原攻めが終わった1591年(天正19年)8月でも瓦葺き建物の建築が継続されたことを示している。

なぜ、小田原攻め終了後も石垣山城の築城は継続されたのであろうか。
その理由を明確にすることができる文献史料や考古学資料は確認できないが、豊臣秀吉の城郭政策や奥州平定などと関連付けて考えると、次のような推測は可能である。

第一は、小田原攻め終了後に関東を領することになった徳川家康に対して優位であることを示すためである。
徳川家康の関東移封後、豊臣秀吉は家康旧領の主要城郭の改修を行い、関東の家康領に接する沼田城上田城松本城小諸城甲府城などでは、天守などの建物で金箔瓦が使用されている。
今のところ、石垣山城から金箔瓦は出土していないが、今後の調査で金箔瓦が出土する可能性もあり、石垣山城は徳川家に対して威を示す「見せるための城」として築城が継続されたと考えられる。
ただし、石垣山城は小田原攻め終了直後に、徳川家康の重臣・大久保忠世に小田原城とともに与えられた可能性もあり(『相中雑志』)、判断が難しいところである。


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第二は、石垣山城の築城を小田原攻めだけではなく、奥州平定(「奥州仕置」)とも関連付けて考えることである。
豊臣秀吉は、1590年(天正18年)年7月14四日に奥州へ向けて石垣山城を出発、8月19日に会津黒川城(福島県)に入城すると、小田原攻めに不参加の諸大名の所領を没収と新大名の配置、検地などの政策を実施した。
秀吉は8月17日に石垣山城に戻り、数日滞在した後に京へ帰るが、奥州では10月16日に、領地を没収された大崎義隆葛西晴信の旧臣らが、新領主の木村吉清・清久父子に反抗し大崎・葛西一揆をおこしている。
また、翌1591年(天正19年)3月に南部一族の九戸政実の反乱が起きると、豊臣秀吉は羽柴秀次・徳川家康を派遣して鎮圧し、9月に奥州平定は完了したことで全国統一がなされたのである。
石垣山城は小田原攻めだけではなく奥州平定の本拠としての役割も果たすべく、1591年(天正19年)まで築城工事が継続されたのではないだろうか。

石垣山城の築城背景を探ると、小田原攻めの本拠としてだけではなく、徳川家対策や奥州平定の本拠として、秀吉政権の城郭政策や全国統一政策の中で役割を果たしたことと考えられる。
石垣山城は、一夜城の伝承にみられる築城経緯に加えて、築城背景にも謎がある城郭である。

(寄稿)勝武@相模

石垣山城の謎~豊臣秀吉による小田原攻めの拠点である一夜城の伝承の背景を探る

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