衣川城跡

衣川城跡

衣川城について・山内氏と細川高国

【衣川城(きぬがわじょう)】
所在地:滋賀県大津市衣川2
築城年代は推定として、
鎌倉時代の文麿元年(1234年)ころとされています。
山内義重によって築かれたそうです。
大永6年(1526年)、11代山内駿河守宗綱の時に、
細川高国の奇襲にあい落城したそうです。
場所は衣川団地の一角にあり、現在は公園になっています。
公園は斜面にあり、1mほどの高低差のある2段の敷地から
なっています。
また、公園の南側には土盛りがありますが、
これが土塁の一部かどうかは不明です。
発掘調査をした際には、
溝跡や建物跡などの城跡の一部が確認されたそうです。

【細川高国】
細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、
鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。
清和源氏の名門足利氏の支流です。
名字は鎌倉時代に
三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)
に土着したことに由来します。

細川家の中でも嫡流とされるのが細川吉兆家です。
第15代細川京兆家当主。

細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、
細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となりました。

養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、
同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、
京兆家の家督を手中にします。
澄元とは抗争を長期にわたって継続しましたが、
管領として幕政の掌握を続けました。
けれども、
細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、
京兆家の抗争に伴って各々対立し疲弊していきます。
外様である大内氏を頼りましたが、
大内勢の帰国後は支持基盤を構築できず、、
最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて
自害に追い込まれ享年48でした。

【山内駿河守宗綱と細川高国】
永年5年~8年(1508~1511)にかけて、
浅井公政・京極高清とともに、近江・坂本・石山の合戦に
朝倉貞景、村上、河野通道、大内義典、そして細川高国らを
相手に戦い勝利しています。
けれども、大永6年(1526年)8月3日、
細川高国の奇襲にあい、衣川城は落城となります。
甥の山内重清はひそかに落ちのび、
伊予国宇摩郡(現在の四国中央市及び新居浜市)
に落ちのび土着したそうです。

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コメント

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