茶人・千利休の優れた弟子たち「利休七哲」!諸説あるメンバーの変遷を振り返る

利休七哲

利休七哲とは?

茶人・千利休は茶道や茶の湯の歴史を語る上で欠かせない人物です。

現代に続く茶の湯を成功させ、今なお多くの人が千利休が大成した茶の湯の精神を引き継いでいます。

中でも千利休の優れた弟子と言われている「利休七哲」はメディアなどでも取り上げられることが多く、歴史ファンだけでなく、一般的な知名度もあるのではないでしょうか。

そんな利休七哲のメンバーは諸説あり、時代の移り変わりとともにメンバーも入れ替わったり人数が増えたりと、少々ややこしいのが特徴的です。

そこでこの記事では、諸説ある利休七哲のメンバーの変遷を簡単に振り返っていきます。


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利休七哲と呼ばれる面々は、千利休の数多くいる弟子たちの中でも、特に茶人としての優れたスキルを持つ人物たち7名を指します。

千利休が生きた時代は戦国時代。天下統一を果たした織田信長豊臣秀吉らも、千利休が持つ茶の湯スキルの取得に熱心でした。

天下を揺るがす人物たちが熱心に茶の湯を学んだこともあり多くの戦国武将たちも茶の湯に熱を入れるのですが、その中でも突出した人たちに対し後世の人々がつけた呼称が「利休七哲」だと言われています。

現在は「利休弟子衆七人衆」に基づいたメンバーが重視

現代が指す「利休七哲」のメンバーは、千利休の実孫・千宗旦が1662年に発行された『江岑夏書』内で語った人物たちが重視されています。

【諸説あり】利休七哲メンバーの変遷を追ってみる

利休七哲と呼ばれる人たちは、時代を経るごとに茶の湯の教科書のような存在である「茶書」内に紹介されているメンバーに変化が見られるのが特徴です。

メンバーが時代ごとに入れ替わっていることからも、千利休が抱えていた弟子の数が多く、有名な人物もいたということが想像できますよね。

利休七人衆

「利休七人衆」は、現在の「利休七哲」を表すもっとも古い呼び方です。

利休七人衆が登場するのは1652年に奈良の塗師である松屋久重が記した『茶道四祖伝書』と呼ばれる書籍。

利休七人衆として紹介されているメンバーをご紹介します。

前田利長
蒲生氏郷
細川忠興
古田織部
・牧村利貞
高山右近(長房)
・芝山宗綱(監物)

加賀藩初代藩主の前田利長が加わっている以外は、現代の利休七哲とほぼ同じメンバー構成です。

利休弟子衆七人衆(利休七哲)

利休弟子衆七人衆は、現代の利休七哲として重視されているメンバーです。

蒲生氏郷
細川忠興
・古田織部
・牧村利貞
・高山右近(長房/南坊)
・芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)

前述のとおり、千利休の実孫・千宗旦が1662年に発行された『江岑夏書』内に紹介されており、「利休七衆」と呼ばれた加賀藩初代藩主・前田利長が削除され、かわりに瀬田正忠(掃部)が加わっています。

寛政期以降は微妙にメンバーチェンジしている

さらに、江戸時代寛政期以降となると、さらに利休七哲のメンバーが微妙に変化しています。

現代で言われている利休七哲のメンバーと入れ替わったり加わったりしている他の人物は、主に以下の人物が当てはまります。

織田有楽斎織田長益
荒木道薫荒木村重
千道安(利休の長男)
・有馬豊氏
金森長近

メンバーチェンジがある中、唯一変わらないのは細川忠興と古田織部の存在です。

この2名以外は、上記で挙げている人物と利休七哲メンバーが入れ替わっているケースが多いようです。

利休門三人衆

千利休の弟子の中でも、最も優秀だとされた3名が尊敬の意味も込めて「利休門三人衆」と呼ばれています。

蒲生氏郷
細川忠興
・芝山宗綱(監物)

まとめ

諸説あるとされている利休七哲のメンバー変遷は、少々ややこしいかもしれません。

メンバーの入れ替わりが多く語られているのは、茶の湯のカリスマでもある千利休の茶の湯が戦国武将たちの間で広まっただけでなく、千利休の人柄や考え方に傾倒した人物も多かったと言えるのではないでしょうか。

(寄稿)あさひなペコ

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