越前丸岡城~現存する日本最古の天守閣~

越前丸岡城~現存する日本最古の天守閣~

越前丸岡城の構造

【越前丸岡城】
丸岡城(まるおかじょう)は、
福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城です。
別名は霞ヶ城とも称します。
江戸時代には丸岡藩の藩庁でした。
現在は天守のみ残っています。

1934年(昭和9年)1月30日
天守が国宝保存法(旧法)に
基づく国宝に指定されました。

1950年(昭和25年)、
文化財保護法(新法)施行により
天守は重要文化財に指定されました。

2006年(平成18年)4月6日、

日本100名城(36番)に選定されました。
日本100名城スタンプ設置場所は
一筆啓上茶屋(霞ヶ城公園内)です。

【所在地】
福井県坂井市丸岡町霞町1−59

【別名】
霞ヶ城
【形態】
連郭式平山城
【天守構造】
独立式望楼型 2重3階
(寛永年間 木造 現存)
【築城主】
柴田勝豊
【築城年】
天正4年(1576年)
【主な城主】
柴田氏、本多氏、有馬氏、青山氏
【廃城年】
明治4年(1871年)
【遺構】
現存天守、移築門、石垣
【指定文化財】
重要文化財(天守)

【城の構造】
【天守】
現存する天守閣は全国で12しかなく、
北陸では、丸岡城のみです。
この丸岡城は、現存する最古の
建築様式を有しているとされ、
戦後に定められた「文化財保護法」で、
天守閣は国重要文化財の指定を受けています。
大入母屋の上に廻り縁のある
小さな望楼を載せた古式の外観から
現存最古の天守とも呼ばれていました。
福井県坂井市教育委員会の調査で
江戸期の寛永年間(1624 – 44年)に
建造されたことが判明しました。
同委員会が2019年3月26日に
発表したとのことです。
従って2019年8月時点では、
現存12天守のうち、
日本最古となるのは、候補として
松本城の「乾小天守」、
犬山城の「天守」となります。
でも、年代的にはさほどの差はありませんし、
豪雪及び寒冷地のお城なので、
よくぞ耐えた!と思います。

【現在の天守】
1948年(昭和23年)に福井地震によって
天守が倒壊してしまいました。
その後、1955年(昭和30年)に
部材を70%以上再利用して
組み直して修復再建されたのが、
現在見られる天守となっています。
その際、最上階の窓の造りが
引き戸から突き上げ窓(蔀戸)に
改変されています。

【天守の構造】
独立式望楼型2重3階で、
1階平面を天守台に
余分を持たせて造られているため
天守台を被せるような
腰屋根が掛けられています。
屋根瓦には笏谷石製の石瓦が
寒冷地であるという気候事情により
葺かれていると見られています。

なお、天守内の階段は急であるため、
安全策として、
観光用の補助縄が取り付けられています。

【イベント】
<4月1日 – 4月20日>⇒ 丸岡城桜まつり
<10月第1または
第2土・日曜日>⇒ 丸岡古城

【天守閣入城時間】
月曜日~日曜日:午前8時30分~午後5時
(入館最終時刻:午後4時30分まで)

【入城料金】
<3カ所共通入場料として>
大人(高校生以上):450円
小人(小中学生):150円
(越前丸岡城+歴史民俗資料館+日本一短い手紙の館)

【交通アクセス】
【車】
北陸自動車道 丸岡ICから約2km。
約5分程度(交通事情により異なります)。

【電車及びバス】
<金沢・長野方面より>
●JR「芦原温泉」駅より京福バス
京福バス「芦原丸岡永平寺」線で約20分
「丸岡城」下車
京都・大阪・名古屋方面より>
JR「福井」駅より京福バス
「丸岡」線で約40分
「丸岡城」下車

【移築門】
小松市の興善寺(下の写真)
<所在地: 〒923-0913 石川県小松市松任町85>
あわら市の蓮成寺
<所在地: 〒919-0725 福井県あわら市前谷10-1>
丸岡町野中山王の民家に不明門
<所在地: 〒910-0323 福井県坂井市丸岡町野中山王23>

越前丸岡城の歴史

【歴史】
【築城以前は一向一揆の拠点】
丸岡城築城以前、
この辺りの拠点は丸岡城より
東方約4kmのところにあった「豊原寺」でした。
豊原寺は、三千坊ともいわれる宿坊が
立ち並ぶ大きな門前を有していました。

1573年、織田信長は、
当時越前を治めていた
戦国武将「朝倉義景」を討ち、
都があった一乗谷を焼き払いました。
すると、豊原寺をはじめとした
この辺りの一向宗の勢力が増したため、
1575年、再度織田信長が「越前平定」のため
越前に攻め入り、
豊原寺などの一向宗の拠点を焼き尽くしました。

【丸岡城の築城】
その後、柴田勝家の甥である「柴田勝豊」が
その豊原の地に居を構えました。
翌年の1576年、
「まるこの岡」と呼ばれていた
現在の丸岡城の場所に城を移しました。

本能寺の変後~勝家滅亡】
1582年(天正10年)、
本能寺の変の後の清洲会議により、
柴田勝豊は近江国長浜城に移されました。
代わって柴田勝家は
安井家清を城代として置きました。
1583年(天正11年)、
柴田勝家が豊臣秀吉によって
北ノ庄城で滅ぼされると、
この地は丹羽長秀の所領となり、
丹羽長秀は丸岡城主として
青山宗勝(修理亮)を置きました。

関ヶ原
1600年(慶長5年) 丹羽長秀死後、
領地はそのままに、
豊臣秀吉の家臣となっていた
青山宗勝とその子である青山忠元は、
関ヶ原の戦いで敗者である
西軍方につき改易されました。
越前国には勝者となった
徳川家康の次男である結城秀康が入封し、
丸岡城には結城秀康の家臣である
今村盛次が2万6千石を与えられ入城しました。

【江戸時代】
1612年(慶長17年)、
今村盛次は越前騒動に連座し失脚します。
幕府より附家老として
福井藩に附せられた本多成重が、
4万3千石で新たな城主となりました。
1624年(寛永元年)、
福井藩2代目の松平忠直が、
不行跡を理由に豊後配流となり、
福井藩に減封などの処分が下されました。
同時に本多成重は福井藩より独立しました。
大名に列し丸岡藩が成立しました。
1695年(元禄8年)、
4代の本多重益の治世、
本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、
幕府の裁定により改易となりました。
代わって有馬清純が、
越後国糸魚川藩より5万石で入城します。
以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり、
明治維新を迎えました。

【明治~現代】
1871年(明治4年)、
廃藩置県により廃城となり
天守以外は全て解体されました。
1901年(明治34年)、
残された天守は、
丸岡町により買い戻され解体を免れ、
城跡は公園となりました。
本丸を囲んでいた堀は、
大正後期から昭和初期までの間に
徐々に埋められ消滅してしまいました。
1934年(昭和9年)1月30日、
天守が国宝保存法(旧法)
に基づく国宝に指定されました。
1948年(昭和23年)、
福井地震のために倒壊してしまいました。
1950年(昭和25年)、
文化財保護法(新法)施行により
天守は重要文化財に指定されました。
1955年(昭和30年)、
倒壊した天守は倒壊材を
元の通り組み直し修復されました。
1990年(平成2年)、
「霞ヶ城公園」として
日本さくら名所100選に選定されました。
2006年(平成18年)4月6日、
日本100名城(36番)に選定されました。

埋め立てられている五角形の内堀について、
現在、復元する計画が浮上しているそうです。

越前丸岡城の伝説~人柱お静の涙雨~

初代城主である柴田勝豊が
丸岡城築城の際、
天守閣の石垣が何度も崩れるので
人柱を入れることになりました。
子をかかえて苦しい生活をしていた「お静」は、
子を侍に取り立ててもらうことを
条件に人柱となりました。
その後、丸岡城は無事完成しましたが、
柴田勝豊は近江長浜へ移ることになりました。
結果的に、お静の子は侍にはしてもらえませんでした。
それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったと噂されます。

具体的には、田植えの準備の頃になると、
堀から水があふれるほど雨が降るようになったそうです。
人々はこの現象を見て「お静の涙雨」と呼ぶようになりました。
今でもこの時期に行われる丸岡祭(国神神社春季祭礼)は、
天候に恵まれることが少なく、
雨が降るたびにこの話を耳にする、とのことです。

越前丸岡城の初代城主である柴田勝豊について、柴田勝政についても。

【柴田勝豊】
初代の丸岡城の城主であった
柴田 勝豊(しばた かつとよ)について紹介します。

柴田勝家の家臣である吉田次兵衛の子、
またはその養子で渋川八左衛門の子、
として生まれました。。
生母は柴田勝家の姉であり、
柴田勝家にとっては甥にあたります。
柴田勝家に当時は実子がいなかったために、
その養子となりました。
天正4年(1576年)、
柴田勝家の居城北ノ庄城の
支城となる丸岡城を築き、
柴田勝豊はその城主として
4万5,000石を領しました。

天正9年(1581年)、
織田信長の京都御馬揃えでは
勝家柴田とともに上洛して
参加したと記録にあります。

天正10年(1582年)6月、
織田信長死後の清洲会議で
柴田勝家の所領となった
近江長浜城の守備を任されました。

けれども、柴田勝家は同じ養子でも
柴田勝政を優遇して柴田勝豊を冷遇したとも
言われています。
更に、従兄にあたる佐久間盛政とも
仲が悪かったことなどもあって、
12月に羽柴秀吉が大軍をもって城を囲むと、
柴田勝豊は大谷吉継の調略を受けて、
長浜城ごと羽柴方に寝返ったとされています。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、
すでに病を得て伏せっていたため、
家臣を代理として参戦させていました。
賤ヶ岳の戦いの直前、
京都東福寺にて病死したとのことです。
柴田勝家滅亡の8日前のことであったと伝わっています。

【柴田勝政】
柴田 勝政(しばた かつまさ)
佐久間盛次の三男、または次男とも言われています。
母は柴田勝家の姉または妹とされています。
越前国勝山城主であり、
柴田当時は勝安と名乗っていたそうです。

最期には諸説あり、
一般的には賤ヶ岳の戦いで撤退中、
羽柴軍の追撃を受け、
羽柴秀吉の小姓・脇坂安治に討たれ敗死したとされています。
しかしながら、
遺骸が収容された記録が無い事から、
生存説が取り沙汰されてきました。
生存説としては2説あります。
一つ目は、賤ヶ岳の戦いの後に
秀吉から罪を許されて
金森長近の家臣となったというものです。
二つ目は、四国に落ち延びたとも伝わっています。
更に四国説には伝承があります。
徳島県に柴田と名乗るところをはばかって
その代わりに付けた「勝田」姓の家があります。
そして、その先祖は柴田勝政だと伝わっているそうです。

別名の霞ヶ城の名前の由来とは?

丸岡城が築城される前、一向一揆が猛威を振るい、
この辺りの拠点は、一向一揆の拠点でもある「豊原寺」でした。
丸岡城築城後も一向宗の残党が城を襲うことがありました。
けれども、その度に、
天守閣横にある井戸から大蛇(龍神)が現れ、
城に霞をかけて城の危機を救ったと言われています。
このことが丸岡城の別称「霞ヶ城」の云われ、とのことです。

流石に現代は、大蛇が噴き出す幽玄な霞を
見ることは叶いませんが、
春になると、
丸岡城を取り囲んでいる桜の花々の淡いピンクが
霞のように見えます。
その中に丸岡城が浮かんでいるような
幻想的な景色となります。
そして桜の時期はライトアップのされるので、
夜間、より一層、その幽玄美を堪能できるそうです。

一筆啓上~日本一短い手紙~

【一筆啓上】
「鬼作左」とも呼ばれた、
徳川家康の忠臣である
「本多作左衛門重次(本多重次)」が
長篠の合戦(1575年)の折、陣中から妻へ宛てた手紙は、
「一筆啓上 火の用心」から始まっています。
この手紙は用件を簡潔明瞭に伝えており、
今日に至るまで、
手紙のお手本と評価されています。
また、短い文章のなかでも妻子を気遣っており、
本多の優しさを読み取ることができると言われています。

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

手紙に登場するこの「お仙」とは、
後の初代丸岡藩主になる本多成重(幼名:仙千代)のことです。

江戸時代に入り、福井藩から丸岡藩が分藩されると、
「本多成重」が初代丸岡藩主(丸岡城主としては6代目)となり、
以後本多家が4代83年間、
有馬家が8代174年間、藩主(城主)を務めました。

【一筆啓上 日本一短い手紙の館】
【所在地】
〒910-0231 福井県坂井市丸岡町3-10-1

【開館時間】
9:00 – 17:00(入館は16:30まで)

【料金】※一筆啓上 日本一短い手紙の館のみの料金
大人(高校生以上):200円
中学生:100円
小学生以下:無料

【休館日】
年末年始(12月29日から1月3日)
展示替えのための休館日あり

【アクセス】
丸岡城から北東方向に徒歩5分。

【(新)一筆啓上賞】
1993年(平成5年)から「一筆啓上賞」、
2003年(平成15年)からは新一筆啓上賞、を設け、
これまでに応募された手紙は100万通を超え、
それらの手紙は本や映画にもなっているそうです。

尚、1994年(平成6年)から住友グループが
「一筆啓上賞」を後援しています。
「一筆啓上賞」は「大切なこと 人から人へ」
という住友グループのグループメッセージと適うこと、
また、坂井市丸岡町は、
住友家初代当主である住友政友の出身地であり、
ゆかりが深いことなどが理由である、とのことです。

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