推古天皇について~飛鳥文化を発展させた日本初の女性君主(女性天皇)

推古天皇

推古天皇とは

推古天皇(すいこ-てんのう)は、飛鳥時代の第33代天皇で、日本で初めての女性天皇として知られる。
推古天皇が生まれたのは554年で幼名は額田部皇女、18歳の時異母兄であり後の敏達天皇と結婚し、父は欽明天皇、母は堅塩姫で蘇我稲目の娘である。
ご承知の通り蘇我氏といえば当時天皇家に次ぐ権力を誇っていた豪族である。


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その一族の長、蘇我馬子が当時の天皇の崇峻天皇を暗殺する事件を起こす。
この事件により次の天皇として急遽その名が浮かび上がったこと、また馬子の勧めにより即位したのが推古天皇だった。
夫が亡くなった時は32歳であり即位したのはその7年後のことであった。
因みに推古天皇と馬子は叔父と姪の関係になる。
推古天皇自身は用明天皇の同母妹、崇峻天皇の異母姉で敏達天皇の皇后という立場であったため次期天皇ともくされていた厩戸王(聖徳太子)が擁立されるまでの中継ぎ、橋渡し役であったとも言われている。
こうした事件を経て日本国史上初の第33代女性天皇がここに誕生した。

推古天皇は即位した39歳から以後、36年間、75歳まで皇位にあった。
稀にみる長期の在位である。
また容姿端麗、頭脳明晰であったと言われている。
『日本書紀』には国政は甥である厩戸王にすべて任されたと記されている。
ここで推古天皇に深く関わった主な人物を改めて簡単にまとめてみたい。

推古天皇に関係した主な人物

厩戸王…後の聖徳太子だがこの名は後世に送られた尊号である。
推古天皇の摂政として政治を主導し、『冠位十二階』、『十七条憲法』を制定し、遣隋使の派遣などの政策も行った。
また『天皇記』、『国記』の国史の編纂や法隆寺の建立等多岐に活躍した。
先にも記述したが推古天皇にとって甥になる。
一度に十人の話を聞くことができたとの逸話もあることで有名だが、近年では実在しなかった人物であるとの説も唱えられている。
当時、生前に退位する慣例がなかったこと、推古天皇より先に亡くなったため天皇になることはなかった。


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蘇我馬子…こちらも先に記述したが推古天皇の叔父にあたり仏教を容認し、朝廷で大きな権力を握っていた。
推古天皇、厩戸王とともに協力して政治を行った。
また娘を厩戸王に嫁がせ縁戚関係も結んだ。
飛鳥寺にある飛鳥大仏は馬子によって建立され日本最古の金銅仏といわれる。

小野妹子…遣隋使として派遣された。
『日出処の天子、書を日没処の天子に致す(以下略)』の国書を持参し隋の2代皇帝、煬帝が激怒したとの記録がある。
また煬帝から預かった国書を盗まれて紛失したとの言い伝えもあるが日本にとって具合のよくないことが書かれていたためわざと渡さなかったとの見解もある。

政治手腕など

推古天皇の功績として蘇我氏全盛期に皇位を継いではいるが決して蘇我氏の言いなりにはならなかったと言われている。
馬子の行き過ぎた態度はたしなめたという。
そのエピソードとして馬子が朝廷直轄地の葛城県を先祖伝来の土地であると主張しその返還を求めたことに対してこれは受け入れられないと拒んだという。
また外交でも遣隋使の派遣、新羅を討つ為、厩戸王と相談し討伐軍を送るなど外交でも手腕を振るった。
このように推古天皇、厩戸王、蘇我馬子の三頭体制を敷き36年もの長期間に渡り国造りに邁進した。
しかし、厩戸王、次いで馬子が没すると推古天皇もまもなく病に倒れ、後継を指名することなく没した。


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推古天皇は75歳で没し、生前に厚葬を嫌っていたため実の息子の竹田皇子の陵の磯長山田陵に合葬された。
蘇我馬子の後を蝦夷が継ぐと再び皇位の後継者争いが起きた時、対立する敏達天皇の孫、田村皇子と厩戸王の息子の山背大皇子を病の床に呼んで遺言をした。
最後まで国のことを想い、人民を愛する女帝だった。

(寄稿)田村麻呂

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