南部茂時とは 南部右馬頭茂時の墓

南部茂時

南部茂時(なんぶ-しげとき)は、鎌倉時代後期の武将で、南部義行の子として1299年に生まれました。
母は、執権である北条氏の一族とされ、兄に南部義重(なんぶ-よししげ)がいます。
この南部氏は、甲斐国南部(山梨県南部町)を本拠として日蓮宗の日蓮を招いて久遠寺を開基している御家人です。

南部茂時は、母の縁で、第14代執権・北条高時のそばで仕えたようで、鎌倉に住まいを与えられていました。
1324年に、甲斐の南部郷の諏訪神社にある坐像を補修し、翌年には社殿を再興するなどの記録が見えます。
元徳2年(1329年)従五位右馬頭に叙任したことから、南部右馬頭茂時と称しました。
1331年、元弘の乱では鎌倉幕府側として行動しており、1333年1月、赤坂城と吉野城の攻撃に加わっています。
また、楠木正成が籠城した赤坂城の戦いにも参じ、六波羅探題が攻撃を受けた際にも、京の一条にて、後醍醐天皇側の軍勢を破っています。



1333年、新田義貞が鎌倉幕府を倒すために挙兵すると、兄の南部義重は、南部時長ら南部一族と共に新田勢に加わりましたが、南部茂時は北条氏(鎌倉幕府)側として戦いました。

なお、父と推定される南部太郎と言う武将と、弟と考えられる南部孫二郎は、北条泰家の軍勢に加わり、武蔵・分倍河原の戦いで新田義貞の軍勢と戦いました。
敗れた幕府勢は鎌倉に撤退すると、新田勢が迫り、執権・北条氏などは東勝寺に集まると一族郎党と共に自刃して果てました。
このとき、南部茂時は藤沢まで逃れましたが、清浄光寺(遊行寺)にて自刃しました。享年34。
付き従っていた佐藤彦五郎ら6名の家来も殉死しています。

遊行上人5代目の安国上人(あんこくしょうにん)が、御十念(おじゅうねん)行ったあと、家臣とともに自害したと伝わりますが、文献としての記録は残されていません。。
南部茂時の墓の左右にある五輪塔は、家臣の墓と言う事です。

なお、南部茂時は、九戸にも領地があったようで、白河結城氏系の結城親朝に与えられています。



また、南部茂時は、南部氏ではなく、鎌倉幕府の連署を務めた北条茂時(北条右馬頭茂時)とする説もあり、その場合には、南部氏一族ではないと言う事になります。
もしかしたら、母方の北条氏の養子にでもなった可能性もあるのではと考えますが、北条茂時が東勝寺にて自刃した遺骸を、家臣の佐藤彦五郎らが遊行寺に葬り、殉死したのかもわかりません。

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