遊行寺とは 照手姫の墓 小栗判官の墓

遊行寺

遊行寺(ゆぎょうじ)は神奈川県藤沢市にある時宗の総本山となる寺院です。
開基は、鎌倉時代後期に藤沢の俣野を領していた俣野氏の一族・俣野景平(俣野五郎景平)で、弟の呑海(どんかい)が1325年に建立しと言う事になります。
この呑海は、遊行上人4世です。
寺の正式な名称は、清浄光寺(しょうじょうこうじ)と言いますが、清浄光寺の法主(藤沢上人)のことを遊行上人と呼ぶこともあることから、通称が遊行寺と言う事になっています。



なお、時宗の僧である呑海は、1319年に遊行上人を継いで第4代と目されました。
1320年に、遊行3代の他阿智得が本寺である当麻道場(相模原の無量光寺)で没した際に、遊行して不在だったため、他阿智得の弟子であった真光が、執権・北条高時の命を受けて跡を継ぎました。
そのため、第4代の呑海は、当麻道場に入れなかったので、兄が遊行寺の開基となって支援したと言う形になります。
以後、時宗は、当麻の無量光寺(当麻派)と、藤沢の遊行寺(遊行派)で争うようになりました。

遊行寺

時宗は遊行・踊り念仏などで、字が読めない人々に、語ることでわかりやすく布教していました。
そのひとつの方法が「小栗半官物語」(照手姫)があります。
この照手姫の物語も、遊行寺長生院に伝わる内容、無量光寺に伝わる内容とで共通点も多いのですが、微妙に違ったりしています。

遊行寺の伝承によると、1426年3月に小栗満重が亡くなり、弟・小栗助重があとを継いで、遊行寺に小栗満重と家来の墓を建てました。

小栗判官の墓

そして、照手姫は仏門にはいり、長照比丘尼となり、1429年に遊行寺の境内に草庵を結んだと言います。
その後、照手姫は永享12年(1440年)10月14日に亡くなりました。
下記が、遊行寺の裏手にある照手姫の墓です。

照手姫の墓

小栗判官の墓と、照手姫の墓は、本堂裏手にある長生院(小栗堂)の裏側にあります。
小栗半官も照手姫も、モデルとなった人物はいたものと存じますが、物語はフィクション(創作)で、いくつもの話がありますので、墓の存在もほんとかいな?と、感じてしまいますが・・。
ただ、映画や時代劇ドラマを作ってみると、おもしろそうな題材だとは存じます。

遊行寺

室町幕府を開いた足利尊氏は、遊行寺に6万貫を寄進するなど、整備が進み、藤沢は門前町として栄えるようになりました。
戦国時代には、1513年に、伊勢宗瑞(北条早雲)と、三浦道寸・太田資康と合戦にて伽藍が焼失しています。
また、遊行寺の寺領は、小田原城の北条氏が没収したようで、のち玉縄城主に返還の交渉をしていますが、復興は許されていません。

そのため、ご本尊の阿弥陀仏が、一時、駿河の長善寺、甲斐の一蓮寺、敦賀の新善光寺にと避難もしました。



遊行上人も、天正19年(1591年)には、水戸城佐竹義宣に招かれ、水戸藤沢道場(神応寺)を時宗の本拠としています。
その後、江戸時代に入り、天順が慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興させ、藤沢に拠点を戻しました。
江戸幕府からは、時宗274寺の総本山と認められ、徳川綱吉が「生類憐れみの令」を発布すると、江戸の街にいた金魚の保護所にもなっています。
家庭で飼われていた金魚を、けしからんと処罰対象になるのを恐れた民衆は、下記の遊行寺の池(放生池)に放しました。

放生池

明治に入ると、対立していた当麻山・無量光寺も遊行派となり、昭和5年の世界恐慌の際には、失業者などが身を寄せたため、無料接待所(今で言う炊き出し)をして、年間1万1000人が世話を受けました。

国宝としては、焼失を免れた、絹本著色一遍上人絵伝12巻があり、京都などの国立博物館などで保管されています。

本堂などは、国の登録有形文化財に指定されています。
その他、1416年(応永23年)、上杉禅秀の乱での戦死者を供養した藤沢敵御方供養塔が、国の史跡となっています。



遊行寺への交通アクセス・行き方ですが、JR東海道本線・小田急江ノ島線・江ノ島電鉄の藤沢駅北口より約15分くらいの距離です。
クルマの場合、坂道の途中(東門)から境内に入れて、10代ほどの無料駐車場があります。

遊行寺の駐車場

お正月恒例の箱根駅伝では、旧東海道の坂道として遊行寺の坂が有名でもあり、必ず中継も行われる名所です。

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