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円蔵神明大神宮(えんぞうしんめいだいじんぐう)・懐嶋城址(ふところじまじょうし)とは?
神奈川県茅ケ崎市円蔵2282所在の神明大神宮を紹介します。
社殿は昭和初期造立です。
ご祭神:
天照大神 ( あまてらすおおみかみ )
祭礼:
7月15日 浜降祭(はまおりさい)
9月17日 例祭(れいさい)
創建及び由緒:
この辺りは「大庭景能(大庭景義)(おおばかげよし)」の
懐嶋城(ふところじまじょう)があったとされる場所です。
大庭氏は鎌倉景継が大庭御厨を領し、大庭景継を称したことから始まります。
大庭景能(大庭景義)の父親である景宗は、その甥と伝わっています(諸説あり)。
大庭景能(大庭景義)は、
相模国大庭御厨(神奈川県藤沢市)の中の
懐島郷(現・神奈川県茅ヶ崎市)を本拠とし、懐島太郎を名乗りました。
そして館を構え、其の鬼門に伊勢神宮を勧請したことが創建だと伝わっています。
館はかなり広大で、豊かに潤い、それゆえ鎌倉方から目をつけられていたとか・・・。
この地の地名は「円蔵」でここには「円蔵祭囃子」があります。
大庭景義がこの地に居住し、懐嶋太朗と名乗り、
伊勢神宮を勧請したさい、
自分の家臣をいたわり時折宴会を開き、
楽人が舞を舞い太鼓をたたきました。
その太鼓が円蔵祭囃子の起源とされています。
一時途絶えてしまいましたが、
復活し後継者を育て、
昭和50年3月には茅ケ崎市指定無形民俗文化財となりました。
また、この神社も、
毎年海の日に開催される「浜降祭」に参加しています。
アクセス:
JR相模線「香川」駅
徒歩21分ほど
JR相模線「北茅ケ崎」駅
徒歩16分ほど
(最短コースだと、一度踏切を渡り、再び線路をくぐります)
山王権現社
ご祭神:
大山咋命
元禄14年(1701)12月大吉日
江戸時代、山王信仰が盛んになったことがしのばれます。
大庭景義(大庭景能)氏について
大庭景義(大庭景能)氏は
若くして源義朝に忠誠を誓い、保元元年(1156年)の保元の乱においては
義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷します。
これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、
第一線を退いて懐島郷に隠棲します。
源為朝の矢を受けて、命を落とさなかったのは景義ただ一人だけで、
運の強い武士であるとの伝説も残っています。
治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、
弟の景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加します。
後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、
頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されますが、
これを断り全てを頼朝の裁断に任せたとあります。
そのことを記した石碑が向かって左から二番目にあります。
弟の景親は平家に味方したので、捕らえられて片瀬浜で斬首となります。
一説によると、兄弟親とあえて敵味方について、
「大庭」の家を確実に残すためではないかとされています。
戦国時代の武将「真田家」と同じですね。
そういえば「真田」は元々は厚木の方の出身だったとか・・・。
武家にとって、、
兄弟親が敵味方に分かれることは
お家存続のための作戦だったのかもしれません。
その後も草創期の鎌倉幕府において、長老格として重きをなしました。
藤原泰衡を征伐する際、頼朝は後白河法皇の院宣を得られず苦慮していました。
しかし景義が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、
戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張します。
その意見が採用され、景義の助言で決心がついた頼朝は
感謝の印として景義に馬一頭を授けました。
其の説明文が象の向かって左にあります。
家督は嫡男の「大庭 景兼(おおば かげかね)」に譲りますが、
建保元年(1213年)の和田合戦の渦中で消息を絶ったか、
失脚したと想定され、その後の足跡は不明です。
がん封じの石
こちらの神社にも「がん封じの石」があります。
この神社の創建者である懐嶋景能公のおつげにより
鶴嶺八幡宮の霊石を勧請しました。
この石と鶴嶺八幡宮の石を両方さすると癒しの効果が増すとの事です。
7月海の日開催の「浜降祭」の時にがん封じの石の祈祷が行われるそうです。
大庭景義公・大庭小次郎景兼公層塔
景義(景能)ゆかりの「鶴岡八幡宮源平池」「懐嶋城址」
「大場小次郎景兼(おおばこじろう かげかね)」ゆかりの和田塚」
の三カ所の土を戴き、鶴岡八幡宮若宮でお祓いを受けて
塔に納めおまつりしているとのことです。
五輪塔
懐嶋館址西方内堀北側から出土した五輪塔です。
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