歴史に学ぶチャイナリスクと日本

歴史に学ぶチャイナリスクと日本

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、ドイツ帝国統一を成した首相、オットー・フォン・ビスマルクの言葉ですが、その言葉と同様に、「歴史は繰り返す」という言葉もあります。

長い歴史の中で人々が同じ過ちを繰り返してしまうのは、経験に学ぶ愚者の方が多いということかもしれません。

どの時代においても、人々は戦争のみならず、災害や飢饉、そして疫病など常に命を脅かす様々な恐怖と戦い続けてきました。

そして、2020年(令和2年)になった今現在も、中国から発症した「新型コロナウィルス」の脅威に晒されています。

当事者である中国では、武漢市と湖北省を軍が制圧し、外出禁止令という独裁者政権らしい封じ込めを行っていますが、他国でも感染者数が増えるにつれ、渡航禁止という厳しめな対応や買い占め、感染者と思しき人に対しての暴行など、様々なパニックが起き始めています。

しかし、残念なことに日本では、感染者が増えつつある中で、未だ完全にノーガード戦法といえるようなぬるい対策しか出来ていません。

政府のお粗末な対応のみならず、体調が悪く発熱していても出勤してしまうサラリーマンや、旅行・イベントに出かけてしまう人々も多く、知らぬうちに感染者を増やし続けているのです。



長い間の平和ボケと正常性バイアスのせいか、日本人はあまりパニックにならないことは良いのですが、当事者意識や危機管理能力は低い人達が多いという問題を抱えています。

311の東日本大震災でも、先祖達が残してくれた津波に対する警告を忘れ、多くの人達が亡くなってしましました。

何故こんなにも日本政府や官僚達が、中国韓国に対して強気に出られず、人々は思考停止になってしまったのかと言えば、日本人は戦後GHQ(共産主義者・ユダヤコミンテルン)に洗脳工作を仕掛けられていたからなのです。

欧米列強の世界で、唯一白人に立ち向かってきた黄色人種は日本人だけです。

白人達にとってはそれが恐怖でしかなく、もう二度と日本人が立ち向かってこないように、GHQは「日本人弱体化計画」を進めてきました。

その時、どうしても目立ってしまう白人の代わりに工作員として使われたのが、いわゆる特亜の三国人(中国人、北朝鮮人、韓国人)です。

GHQは三国人と同時に、戦前・戦中に逮捕され「赤狩り」にあっていた極左の人材を解放し、マスコミ、政治、司法、教育界など幅広く投入して、日本人の愛国心やアイデンティティを徹底的に破壊したのです。

対して中国、朝鮮などには反日思想を徹底的に植え付けた上、日米の離間工作も行い続けたことで、日本は精神的にも経済的にも没落させられました。

また戦後の日本では、男がいない混乱期状況の中、特亜の人達は大いに暴れ、多人数による暴力と強姦で恐怖心を植え付け、次第に金とハニートラップで弱味を握り、気が付けば日本は中国、韓国の下僕と化していたのです。

その為に、日本では今も強気な対策や対応をすることが出来ません。



新型コロナウィルス感染の脅威だけではなく、長い歴史を振り返ってみれば、日本と大陸が近づいた時、国内には厄災や戦乱が必ず起こっていたのです。

今回は、今こそ日本人が「愚者から賢者」に生まれ変われるよう、歴史からチャイナリスクを学び、同じ過ちを繰り返さないよう、日本の未来について考察していきましょう。

粛清と抗争で血塗られた歴史を繰り返す中国大陸

中国四千年の歴史、最近では五千年などと言い出している中国。

しかし、現在の中華人民共和国が誕生したのは戦後1949年(昭和24年)なので、国としてはたった71年の歴史しかありません。

また現在の中国人は、自らを「漢民族(かんみんぞく)」の末裔などと呼称しますが、実は2007年(平成19年)に行われたDNA鑑定の結果、純粋な漢民族では無かったことが判明しました。

何故かと言えば、大陸では長い歴史の中で様々な民族が常に侵略と抗争を繰り広げ、王朝が変わる度に民族浄化という名の元、大量虐殺と粛清、そして多民族の女性を襲うことで多くの混血児を生み出したからです。

今の中国人は様々な民族との混血児達の末裔なのです。

日本でも、戦国時代や幕末の志士達のように、同胞同士や親族同士での醜い争い、抗争、虐殺もありましたが、中国大陸の残虐非道の歴史とは比べ物になりません。

中韓のスポークスマンと化したマスコミは、「隣国に配慮を」「アジアに責任を」という言葉を使いますが、大抵そこに登場するのは三国(中国、北朝鮮、韓国)だけです。

しかし、地図を眺めてみれば、アジアは三国だけではないことがすぐにわかるでしょう。

中国を含むアジア圏は、ヨーロッパを除く広大なユーラシア大陸に190以上も国があり、人種も多種多様に存在しています。

その為、元々中国と呼べる領土の周辺には、インドや中東、モンゴル、ペルシャなど様々な人種や民族が暮らしており、飢饉や災害などで食糧や水が不足する度に、陸続きの大陸では行き来も容易い分、各地で侵略や抗争が繰り広げられてきました。

人種や民族が違うことで、自分達の一族や民族が生き残る為に大陸での戦は絶えず、容赦の無いジェノサイド(民族の大量虐殺・殺戮)が起きてしまうのでしょう。

例えば最初に中国を統一した始皇帝で知られる秦(しん)の王「贏政(えい・せい)」は、知識や知恵を持つ儒学者を生き埋めにしたり、韓・魏(かん・ぎ)連合部隊との戦では24万人、趙軍(ちょうぐん)との戦いでは、40万人を斬首刑しています。

この始皇帝が行った大量虐殺と思想弾圧、民族浄化に倣ってか、その後大陸の支配者(勝者)となる者達は、度重なる虐殺と思想弾圧を行っていくことになりました。

血塗られた大量虐殺や侵略は、ここでは書ききれないほどありますが、少なくとも今の中国共産党が仕切る中華人民共和国までの間に、統一王朝は12回変わっており、その度に大小合わせて幾多の革命や虐殺が起きていたのです。

現在の中国共産党も同じく、各地で紛争や侵略を続け、毛沢東は文化大革命などで自国民を何千万人も虐殺しただけではなく、チベットやウイグルを侵略、文化や思想弾圧、民族浄化は今も続けられており、習近平国家主席は毛沢東のやり方を踏襲していることを忘れずにいましょう。

そして勿論、日本は今も完全にターゲットになっており、北海道から沖縄まで中韓の侵略は相当進んでいるということが現実なのです。

中華思想の大陸と対等を選んだ聖徳太子

始皇帝以降、中国人には「中華思想」または「華夷秩序(かいちつじょ)」と呼ばれる思想と、「易姓革命(えきせいかくめい)」という思考が植え付けられました。

簡単に言えば、世界の中心は中華であり、その他の国は蛮族であるという思想と、儒教や五行説によって得た「徳を失った天子は、天に見切りを付けられ革命が起きる」という思考のことです。

その為、中国の天子(王朝)が天に選ばれし世界秩序のトップであり、周辺国を常に属国や冊封(さくほう:君臣関係国)として扱ってきました。

教育の一環と見せかけて思想弾圧を行うのも、自国民が世界秩序のトップであり、周辺国は野蛮な生き物だという考えからきているのでしょう。

同時に「易姓革命」という思考がある為、虐殺や弾圧が続きその支配者が死んだり力を失うと「徳がないからだ」という理由の元、必ず「革命」が勃発します。



革命が起きて新しい支配者が誕生する度、前支配者に使えていた者達は、親族もろとも赤子に至るまで徹底的に虐殺されてきたのです。

支配者達はそれだけではなく、自分以外は信じられない国民性の為か、自分と共に戦ってくれた家臣達すらも、力があると見做された瞬間、一族もろとも処刑されてきました。

先ほど少し触れたように、他国との関係でも、天子(王朝のトップ)は世界に一人、周辺国の王達は天子の家臣であり、朝貢(ちょうこう:朝廷に対する貢物)をする替わりに「王」という称号を与えるという属国扱いです。

日本でも、「委奴国王(わのなのこくおう)」や「邪馬台国の卑弥呼(やまたいこくのひみこ)」が、後漢(ごかん)王朝、魏(ぎ)王朝と冊封関係(さくほう:君臣関係)を結んでいました。

奴や邪、卑という漢字を見ても、あまり良い字とは言えず、日本も蛮族とされていたのは明白で、中国の歴代王朝は常に日本を下に見ていたのです。

西暦600年頃の中国王朝は「遣隋使」でお馴染みの「隋(ずい)」で、日本も仏教や漢字、技術や文化を隋から学ぼうと朝貢関係を続けていました。

しかし、そのような関係を一変させたのが、今や教科書からも消されてしまいそうな「聖徳太子(しょうとくたいし)」だったのです。

この頃の日本は、神武天皇即位からすでに1260年の時を経て、天皇も第33代推古天皇が聖徳太子と共に中央集権制度を完成させようと動いていました。

推古天皇は中継ぎの女帝でしたが、推古天皇は第29代欽明天皇の皇女であり、第30代敏達天皇、第31代用明天皇は異母兄で、摂政を務めた聖徳太子もまた用明天皇の第二皇子だったので、伯母と甥の関係に当たります。

そんな聖徳太子は、隋と交流は続けながらも日本を独立国とする為に、第2代隋皇帝「煬帝(ようだい)」にあの有名な手紙を送りました。

「日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す 恙なしや(つつがなしや)」でお馴染みの国書にて、日本にも天子(天皇)がいるのだとアピールしたのです。

与えた王でもなく、自分と同じ天子を語る書に、煬帝は当然激怒しましたが、このあと日本に制裁や軍事行動を行っていません。

何故なら、当時の隋もまた高句麗(こうくり:現在の朝鮮半島)に侵攻中で、同時期に日本でも朝鮮半島にあり、新羅(しらぎ)に奪われた日本の支配地「任那(みまな)」を取り戻すべく、朝鮮出兵中だったからです。

この状況下で、日本まで敵に回ることを畏れた煬帝は、もう一人の天子の存在を認めるしかなかったのでしょう。

聖徳太子も同じく、そのチャンスを生かして国書を送ったと言われている為、日本はこの時、アジア圏で唯一「華夷秩序」から抜け出すことが出来ました。

ちなみに、高句麗も新羅も今の韓国人、朝鮮人とはまったく別の民族です。

遣唐使を廃止した菅原道真と鎖国した徳川家康

2600年以上も続く長い歴史の中で、外敵から攻め込まれず平和だったと言われる時代が3つあります。

一つは一万年以上も長い間、人が暴力による死亡痕跡がたった1.8%だった縄文時代。次に内乱や自然災害はありつつも、外敵から責められることもなく390年も続いた平安時代。

そして、260年以上も徳川が支配した江戸時代の3つです。

これらの共通点に、日本が大陸との積極的な交流及び、接近が無かったことが上げられます。

元々大陸と続いていた日本列島が、長い時を掛けて離れ、気が付けば海に囲まれた島国になっていたことも大きいのでしょう。

縄文時代、ユーラシア大陸ではすでに食べ物、領土、宗教、権力などを巡って、侵略や戦争という醜い争いが始まっています。

しかし、日本では同胞同士の争いも、外敵からの襲撃も無いまま、平和な時代を過ごしていました。



逆に木船で誰も住んでいなかった、朝鮮半島周辺に移り住んでいる縄文人は多々存在しますが、大陸と大きな係わりはありません。

その後、紀元前300年頃から大陸文化や渡来人が入り込み、日本は徐々に大陸と係わっていくことになりました。

華夷秩序からの独立を目指したのは聖徳太子ですが、今まで続けていた交流を断ち切ったのは、平安時代の菅原道真(すがわらみちざね)と言われています。

「白紙(894年)に戻す遣唐使」と試験対策では習う為、894年に菅原道真が遣唐使を廃止したと覚えている人も多いかもしれません。

しかし、正確には遣唐大使に任命されたものの、当時の唐国(からくに)が情勢不安だったことで、遣唐使廃止を訴えていたという程度です。

実際遣唐使はこの時から行われておらず、その13年後に唐は滅亡してしまうので、菅原道真には先見の明があったことは確かと言えるでしょう。

これ以降、日本は大陸と離れた約260年の間は大きな内乱も無く、独自の文化がどんどん生み出されて京は栄えていきました。藤原氏が台頭してきたのもこの頃です。

時代は進み、徳川家康が天下統一を果たして、徳川政権が始まった江戸時代。

この時代、大陸との関係が皆無だったわけではありませんが、少なくとも幕府が直接的に係わることはありませんでした。

江戸時代は鎖国をしていますが、長崎の出島では清国(しんこく)とオランダのみ、交易を認めています。

しかし、幕府が行ったのはあくまでも貿易管理のみで、清国と国同士の交流はしていません。

そのせいか、江戸時代もまた平安時代と同じように、日本独自の文化が発展し、大きな内乱も外敵の脅威に晒されることもなく、260年以上も天下泰平の世となったのです。

大陸との接近が呼んだ厄災と戦乱の歴史

大陸と離れることで平穏になるのであれば、大陸と近づいたことでの厄祭と戦乱が起きることは、果たして本当なのか、ここでは改めて歴史を振り返って見てみましょう。

遣唐使を廃止して約260年後、平和だった平安時代にも動乱の時期が突如として訪れました。

その原因は、後白河法皇(ごしらかわほうおう)と崇徳天皇(すとくてんのう)の政権争いと、摂関家であった藤原氏の内紛による武力闘争でしたが、この時頭角を現したのが平清盛(たいらのきよもり)です。

この平清盛の父、平忠盛(たいらのただもり)は、金を得る為に当時の大陸王朝「宋(そう)」と貿易を行っていました。



息子の清盛も日宋貿易を引き受け、積極的に港の整備や周辺地域の支配下に置き、宋との貿易や交流を深めていくのです。

貿易で莫大な富を手に入れた清盛は、その金や物資を使って朝廷内にも取り入ることができ、武士として初めて、朝廷の最高職「太政大臣(だじょうだいじん)」となって権力も手に入れました。

清盛は自らの外孫である「安徳天皇(あんとくてんのう)」をわずか3歳で即位させ、最大の権力を持つことになりますが、最終的には病で倒れ、平家は滅亡してしまいます。

次に大陸と日本が近づいた時代は、鎌倉時代。日本が初めて迎えた外敵による国難と言えば、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の二度も起きた元寇、いわゆる蒙古襲来でしょう。

この場合、日本から大陸に近づいた訳では無く、向こうからやってきたというものですが、当時大陸で絶大な力を持ったモンゴル帝国(元朝)と属国の高麗(こうらい:現朝鮮人の祖先)は、日本を配下にすべく侵攻したきたのです。

すでに政権は朝廷から鎌倉幕府に移り代わって約90年。源氏も滅び、時の執権は北条氏が握っていました。

当時の武士達は命を惜しまず、果敢に立ち向かう勇敢な男達でしたが、3万という大軍と約900艘もの軍船でやってきた元寇に、迎え撃つ対馬の武士は100人にも満たない少人数です。

戦い方の違いや鉄砲という武器を持つ元と高麗軍に、多勢に無勢で攻め入られた対馬、壱岐(いき)は壊滅。

元の手下であった高麗軍は、侵略後に略奪、放火、虐殺、女は犯されたり、女子供の手に穴を開け数珠つなぎに鎖で拘束した上で、盾代わりにしたり、奴隷として連れ去られたのです。

しかし、隙を見て応援を頼みに走った武士のおかげで、その後約5000人ほどの武士達が博多に終結して、日本の武士達も反撃を開始しました。

結果、元軍は謎の撤退をし、二度目の侵攻では日本でも港を守る防塁を作り、嘘の情報で相手を惑わせ、今まで卑怯とされてきた夜襲や奇襲も使って、約10万という大軍を撃ち破ることができたのです。

追い打ちを掛けるように、タイミング良く台風の暴風雨が元軍に襲い掛かり、日本は元寇からの脅威に勝つことができました。

ただしその後鎌倉幕府は、命懸けで働いた武士達に恩賞を与えることが出来ず各地で反乱が勃発し、元寇から約50年後に滅び、今度は足利尊氏(あしかがたかうじ)が室町幕府を開きます。

この室町幕府では、「おのれ一休!」でお馴染みの第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)が、鎌倉武士達が命懸けで遠ざけた大陸に、なんと自ら近づいてしまいました。



当時の王朝は明(みん)ですが、足利義満はこの明との貿易を開始した上に、形式上とは言われているものの又しても朝貢(勘合貿易)を再開してしまったのです。

足利家もまたこの貿易によって金と権力を盤石にしていきました。

しかし、第6代将軍足利義教(あしかがよしのり)の頃から、世の中では下剋上の世界がスタートし、義教は暗殺され、第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の時代には、応仁の乱が始まって、世の中は群雄割拠の戦国時代に突入していくのです。

結果、室町幕府も気が付けば第15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)で終焉を迎え、次に政権を握ったのは織田信長でした。

織田信長が力を付け始めた頃は、スペインやポルトガル人が宣教師の仮面を被り、日本偵察の為に現れており、大陸との積極的な貿易は行っていません。

次に大陸へと野望を燃やしたのは、豊臣秀吉で、彼は天下統一を果たした後、明国(みんこく)を滅ぼすために、朝鮮半島へ武士達を送り込みました。

戦も無くなり、武士達の仕事や恩賞になるような土地も無く、秀吉は大陸侵攻を決意したと言われていますが、とくだん大義名分の無い朝鮮出兵に対し、武士達のほとんどが乗り気では無く、慣れない船での移動、土地での戦では疲弊し戦意も喪失していったのです。

秀吉死後、朝鮮出兵に対する不満が高じて、石田三成を始めとする事務方と武士達による軋轢も生まれ、最終的には関ケ原、大坂冬の陣、夏の陣を経て、豊臣家は滅亡してしまいました。

先にも触れたように、徳川家康が天下統一を果たし、江戸時代には大陸との関係はほとんど無いまま、今度は黒船襲来によって数百年ぶりに国難が訪れますが、維新後欧米と親交を深めた日本は、見る間に力を付け、白人達と肩を並べ「世界五大国」と呼ばれるほどの大国となったのです。

明治の新政府は、「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」が政治の基本で、西洋を模範としていました。

しかし、大正時代に入った頃から、何故か突如として「アジア主義」という思想が、ゾンビのように蘇り、日本中に蔓延していきます。

今考えてみれば、明治後期あたりから共産主義者(ユダヤコミンテルン)が世界中で暗躍し、世界を混乱させようと、各地で煽動や洗脳工作を開始していた為、白人と黄色人種という対立煽動を行っていたことは明白です。

ウーマンリブ(女性解放運動)などは、その筆頭なのです。



共産主義者の工作法で代表的なものの一つに、二元論があります。

○○VS▲▲というように二組で対立構造を生み出し、国民や家族、男女など一集団を分断し団結させない工作が有り、現在も盛んに行われていますが、例えば「与党と野党」「男女」「喫煙と禁煙」などは一番有名な対立工作でした。

大正時代も同様に、白人とアジア人を分断する為、共産主義者が日本国内で「アジア主義」を広めていたということが正解と言えるでしょう。

その思想にまんまと嵌められ、満州に夢を持って大陸に近づいていったのは、大正時代の日本政府や陸軍(関東軍)だったのです。

結果、日本は泥沼の戦争へと導かれ、国は滅亡寸前まで追い込まれることになっていきました。

ピンチはチャンス!今こそ脱亜論に学ぶ時

敗戦から27年間、日本と大陸はまた再び離れることになりますが、その間日本はアメリカの統治下で、わずか15年ほどの間に高度成長期を迎え、焼け野原から見事返り咲くことができました。

しかし、1972年(昭和47年)、またしても日本は自ら大陸に近づき、当時の首相であった田中角栄は、新興国の中華人民共和国と国交正常化を果たし、厄災に飛び込んで行ったのです。

アメリカでも、アジアと日本、そしてアメリカと日本を対立関係に起きたい共産主義者は未だ暗躍している為、その時々で方向性が変化することはありましたが、悪夢の民主党政権は反日工作員の巣窟だったおかげで、その時代はどっぷりと中韓の属国政権となりました。

その間に、日本の技術は盗まれ、安い人件費と日本からのODA(政府開発援助)で資金も調達し、気が付けば中韓と日本の国力は逆転されてしまったのです。

結果、大量のチャイナマネー、コリアンマネーが飛び交い、大学にはスパイ養成所の孔子学院が入り込み、官僚達はパンダハガーやチャイナスクールと呼ばれる親中派も増加しました。

中国は世界中に金をバラマキ、作業員という偽りの人民も大量に送り込み、着々と華夷秩序を進めてきていたのですが、トランプがアメリカ大統領になった頃から、風向きは変わってきています。

中国の侵攻に脅威を感じる国が増え始め、アメリカでも工作員達の暗躍がバレたことで、世界は今中国排除と解体の動きを開始したところで、今回の新型コロナウィルス大量感染が発覚してしまいました。

習近平国家主席は、今最大のピンチを迎えていると言えるでしょう。

毛沢東が文化大革命後、世界から締め出される寸前で、助けを求めたのは日本の天皇でした。

同じようにこの春、天皇との面会を国賓扱いでして欲しいと、習近平が日本政府に懇願し続けているのは、自分の身を守る為の利用以外何物でもありません。

元武士で慶応義塾の創立者、そして一万円札でよく知られる福澤諭吉は、明治時代に「脱亜論」を発表し、我々日本人にしっかりとチャイナリスクを唱えています。



今から135年前、福沢諭吉は中国と朝鮮のことを、「同じアジアでありながら、この二国とは精神的隔たりは大きく、彼らは千年前から精神が変わっていない」と断罪し、「この二国が国際的な常識を身に着けることや、アジアの一員として繁栄の為に関与できるなど幻想を捨てろ」と論じているのです。

また、「白人にすればアジア人は同じように思われることもあり、中韓が精神も行動も同じと思われてしまう」「悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れることはできない」とも言っています。

彼が生きていたなら、現在の日本を見て何と言うのでしょうか?少なくとも、彼の残した言葉は、今の日本人に対する説教のように見えてくるのです。

新型コロナウィルスで、日本も着々と感染者が増えている現在、未だ目先の金や弱味などから、政府と官僚、そして経団連の動きは鈍いです。

今頃になって学校閉鎖や、イベント中止要請、在宅勤務のお願いなどを始めていますが、感染に関してはすでに時遅しと言えるでしょう。

ただし、マスコミは国民に不安や恐怖を与え、更に政権批判を行う為に、デマとフェイクをバラマキ、正確な情報を与えません。

今現在、中韓で莫大な死亡者が出ているのは、医療現場が崩壊するほど一気に人が押し寄せた結果であり、日本ではまだ死亡者数は少数で済んでいます。

正常性バイアスで思考停止はいけませんが、必要以上にパニックになる必要はないのかもしれません。

手洗い、うがい、顔洗い、なるべく人ごみに近づかない、少しでも体調が悪ければゆっくり眠ることという基本的な行為が意外と命を守る行為と言えます。

しかし、歴史通りであれば、近いうちに強大な力を持った習近平は、その天下から引きずり降ろされ、再び大陸では血で血を洗う抗争や、革命が起きる時期に来ているのかもしれません。



先人達が命懸けで守り続けてきたこの国を、再び正常に戻し、日本人が立ち上がっていくには、今がまさにチャンスの時と捉えることができます。

今度こそ、大陸とは距離を置き続け、日本はしっかりと独立国として生まれ変わる必要があると言えるでしょう。

(寄稿)大山夏輝

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