鈴木重家と小森御前 鈴木山重染寺跡

鈴木山重染寺跡

鈴木重家(すずき-しげいえ)は、源義経に最期まで従った平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・豪族です。
藤白・鈴木氏が出自で熊野信仰を広めた神官の家柄です。
日本全国の鈴木さんの姓名発祥の地、和歌山県海南市藤白の鈴木屋敷を、まだ幼かった源義経が滞在したことがあり、知り合ったものと考えられます。

鈴木重家の父・鈴木重倫は、平治の乱で源義朝に味方して討死しました。
弟には、弓の名手である亀井重清がいます。



治承・寿永の乱で、鈴木重家(鈴木三郎重家)は源義経に従いました。
そして、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで戦功を挙げると武名を馳せています。
壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて勝利に貢献しました。

のち、源頼朝と決別した源義経が奥州・藤原氏を頼って平泉に赴くと、その話を聞いた鈴木重家は、妻子を熊野に残して奥州に向かったと言います。
1189年、弟の亀井重清、叔父の鈴木重善と共に、腹巻(鎧の一部)だけを持って赴いたと言います。
その途中、鎌倉幕府側に、一度捕縛されますが、源頼朝の前にて、堂々と源義経の、ぬれぎぬを弁明したとも言われています。
そして、許されたようで、平泉に入りましたが、藤原泰衡が衣川館の源義経へ軍勢を用意してた頃に到着したようで、義経主従が最後の宴を催していた時に到着したとされています。
そして、源義経から佐藤継信・佐藤忠信が残した鎧を賜りました。

熊野に残っていた妻・小森御前(こもりごぜん)は、このとき、身籠っていたともされますが、夫の安否が気になり、あとを追って奥州へと向かったと言います。

そして、1189年閏4月30日、藤原泰衡は500騎にて衣川館(高館義経堂)を包囲します。(衣川の戦い)
武蔵坊弁慶、鈴木重家、鈴木重清らは、わずか10数騎で源義経を守りました。
しかし、多勢に無勢、源義経は、戦うことなく持仏堂に篭って自害しました。

鈴木重家は享年33。
弟の亀井重清は享年23と伝わります。



ただし、鈴木三郎重家は、落ち武者となって出羽・山形から羽後・秋田に入って、湯沢から山田をへて伊沢(飯沢)に着き、土着帰農すると、名を杢助(モクスケ)と改めたともあります。
現在、鈴木家住宅・染付蔵(国の重要文化財)として公開もされています。

一方、奥州を目指していた小森御前は、志津川(宮城県南三陸町)にて、夫が討死したことを知り、乳母とともに八幡川に身を投げて自害したと伝わります。・
その場所には、小森御前社があります。
2011年、東日本大震災の津波にて小森御前社は流されましたが、地元の皆様や鈴木家のご子孫によって再建され、現在も祀られているとの事です。

鈴重家の子とされる、鈴木重染(鈴木小太郎重染)は、父の仇を討つため故郷の紀伊から建久年間(1190年~1198年)に陸奥へ赴きました。
鈴木重染は、陸奥に入った際に、敵の顔に似た人面石を見て、覚めるところがあり、源義経と鈴木三郎重家を弔うため、一寺を建立して、鈴木山重染寺と称したと伝わります。
その場所は、岩屋堂城近くの中腹にありますが、現在、重染寺は消滅しており跡地となっています。
奥州・藤原氏は、1189年9月に奥州征伐で滅亡していますので、仇をと言うより、鈴木重染は供養のために訪れたのではないでしょうか?
しかし、鈴木山重染寺跡として整備されており、源義経・鈴木三郎重家・鈴木小太郎重染の供養塔が建立されています。

石の墓を見る限りは、だいぶ新しそうですので、最近になって墓(供養塔)が建てられたと感じました。
あとで、調べましたら、2005年のNHK大河ドラマ「義経」の放映にあわせて、江刺市観光物産協会が、重染寺跡に源義経、鈴木三郎重家、鈴木小太郎重染の供養塔を建立したとの事です。

鈴木山重染寺跡は、駐車スペースもありますので、クルマで行くことが可能です。

熊野に残った鈴木一族からは、戦国時代に鉄砲で活躍した雑賀党の鈴木氏や、江梨・鈴木氏などを輩出しています。



今回、岩屋堂城を訪問しようとしたところ、橋が通行止で、仕方なく、山道を麓に降りて行きました。
その途中に、この鈴木山重染寺跡があった次第で、予定外の偶然となる訪問でした。
鈴木山重に導かれたのかなとも感じてしまいます。

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