柏山稲荷神社・厳島千人力弁天社~大庭景親創建、吉田将監の屋敷跡~

柏山稲荷神社・厳島千人力弁天社~大庭景親創建、吉田将監の屋敷跡~

柏山稲荷神社(かしわやまいなりじんじゃ)について

神奈川県藤沢市城南3丁目6番2号所在の
柏山稲荷神社についてご紹介します。
現在は藤沢市立柏山公園の一角にあり、
手入れもあまり行き届いていないような神社ですが、
建立は、平安時代までさかのぼります。
保元3年(1158年)に大庭三郎景親により創建されました。
大庭城を守るため引地川を堰き止める水門を作り、
この水門の護り神として勧請しました。
この辺りはまた堰守であった吉田将監の屋敷跡とされています。
実際に、将監淵(しょうげんぶち)は水門があったとされ、
太い丸太が出土しています。
<ご祭神>
宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)

【大庭三郎景親(おおばさぶろうかげちか)】
大庭 景親(おおば かげちか)は、平安時代末期の相模国の武将です。
平良文の末裔である鎌倉景正の流れを汲む大庭氏の一族です。
(景親は景政の曾孫にあたります)。

平治の乱後に平家の忠実な家人になり、
治承4年(1180年)に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると
平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破しました。
けれども、安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて
鎌倉へ入ると抗する術を失います。
頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、片瀬浜で処刑されました。
なお、兄である大庭 景義(おおば かげよし)は頼朝方についていました。

【吉田将監(よしだしょうげん)】
現在残されている大庭城は、室町及び戦国時代の城郭跡です。
北條早雲(伊勢宗瑞)によって落城しますが、
(1512年<永正9年>)
その時の城主は上杉朝長でその重臣が吉田将監でした。
柏山稲荷神社(かしわやまいなりじんじゃ)のあるこの場所は、
元々は大庭城のからめ手であり
有事の際には、この堰を閉じて、
この付近一帯を湖の様に水浸しにできる構造であったと伝わっています。
重臣であった吉田将監がその役目を担っていました。
ここに屋敷を構えていたそうです。
そうしたことから将監屋敷(しょきやしき)という地名が残っています。
大庭城から南東に1.5キロ程の場所にあります。

厳島千人力弁天社について

また、この場所にはもう一つ、神社があります。
厳島千人力弁天社(いつくしませんにんりきべんてんしゃ)といいます。
こちらも、大庭景親厳島神社を勧請し、
竜神大神のお告げにより女性1000人で社殿を建立したと伝わり、
名称が「千人力」と名付けれたそうです。
ご祭神は厳島神社からの分霊ということで宗像三女神と推測されます。
興味を持ったのは何故「厳島神社」を勧請したか、ということです。
大庭景親は平氏方につきました。
平氏といえば、「平清盛」で、そこから連想されるのが
「厳島神社」です。
「厳島神社」は、平清盛の結びつきを契機に
平家一族から崇敬を受けていたので、
景親も勧請することにより、
平家との結びつきをより強くしようとしたのかもしれません。
結果としては景親は破れ、大庭城も扇谷上杉氏の城となります。
この厳島千人力弁天社の池の様子は、
景親の果たせなかった思い、
或いは、戦国時代、内通者によって
あっさりと堰を破られてしまったことによる無念さかもしれません・・・。

柏山公園

柏山稲荷神社と厳島千人力弁天社にひっそりと護られるように
今は遊具がある公園となっています。
春には桜、秋にはイチョウが綺麗に色づくそうです。
特にイチョウが見事、とのことです。
また、イチョウは成長し、巨木になると、種類によっては
枝から垂れ下がったように下に伸びた棍棒上の突起物が生じます。
この突起物を「垂乳根(たらちね)」、「乳イチョウ(乳銀杏)」
と呼ばれ、古来から信仰の対象になることが多く、
母乳がよく出るようにという願掛けなどに信仰を集めてきました。

稲荷神社のご祭神は五穀豊穣を司る神、
厳島神社は女神ですので、豊かに暮らし、子孫繁栄、
子供が育まれるようにとの願いがここにはあると思います。
実際、閑静な住宅街で、近くには小学校もあり、
訪れた日も親子連れが遊んでいました。
駐車場は確認できず、トイレはありません。
引地川に隣接しており、
引地川沿いはサイクリングロードとして整備されています。

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