静岡・誓願寺の解説~駿河・丸子城の麓にあり片桐且元の墓もある名刹

静岡・誓願寺

静岡・誓願寺

静岡・誓願寺(せいがんじ)は、静岡県静岡市駿河区丸子にある寺院。
駿河・丸子城の西側の谷に位置する。

静岡・誓願寺

鎌倉時代初期の1192年に、源頼朝が父・源義朝と、母となる藤原季範の娘・由良御前の菩提を弔うために創建したと伝わる。
祖師堂には「武皇嘯源大禅定門」と記述された源頼朝の位牌も祀られているようだ。
ちなみに、源頼朝が生まれた熱田神宮の下屋敷があった場所(源頼朝生誕地)には、戦国時代に同じ名称の尾張(熱田)・誓願寺が建立されているので、関連性があるものと推測できる。


スポンサーリンク



同じ戦国時代の1536年、今川氏輝が死去すると、栴岳承芳(今川義元)と玄広恵探が家督争い「花倉の乱」となった。
このとき、久能城で挙兵した玄広恵探は、今川館(駿府館)を襲撃するも失敗して、焼津の方ノ上城や、藤枝の花倉城へ逃れ、寿桂尼太原雪斎らが押した今川義元が勝利した。
この過程で、丸子の誓願寺は焼失したようなので、逃亡の際に玄広恵探(げんこう えたん)は、一時、誓願寺に籠ったのだろうか?
ただし、1554年、今川と武田信玄とが駿河・丸子城の戦いとなった際に、飛び火で誓願寺が全焼したと言う話もあるが、1552年に今川義元の娘・嶺松院と、武田信玄の嫡男・武田義信との婚儀が成立したばかりなので、戦火による1554年焼失は疑わしい。

静岡・誓願寺

いずれにせよ焼失していた誓願寺は、甲斐・恵林寺快川紹喜和尚の進言もあり、武田信玄が重臣の穴山梅雪に命じて再興させたとあるので、少なくとも1568年以降のことになると考えられる。

片桐且元の墓

誓願寺の本堂から左手にある墓地の奥の方に、片桐且元の墓(片桐且元の供養碑)がある。

片桐且元の墓

江戸時代・大坂の陣の原因となった「方広寺鐘銘事件」の際(1614年)に、豊臣家は悪くないと駿河まで弁明に赴いた片桐且元が、この丸子の誓願寺にて逗留していたと言う話がある。
その頃、駿府城にいた徳川家康は、片桐且元の面会を拒否していたとされるので、その際にか?
大野治長清韓も同行していたようで、南禅寺の長老であった清韓は鞠子宿(丸子宿)にて徳川勢に捕縛されている。
結局、あとから来た大蔵卿局がすんなり交渉を成功させ、徳川家康に会う事さえできなかった片桐且元は面目を失い、逆に徳川家に寝返ったのではと?淀殿らから疑われた。
そして、殺害されそうになった片桐且元は大坂城から退き、大坂の陣では徳川勢の先鋒を務めるも、大坂夏の陣が終った20日後に京都で亡くなっている。


スポンサーリンク



なお、駿河の誓願寺に、片桐且元の墓(片桐且元公夫妻の墓)を建てたのは片桐貞昌と言う武将になる。
片桐貞昌(かたぎり さだまさ)は、大和・小泉藩の第2代藩主。
父は、片桐且元の弟になる片桐貞隆。
片桐貞隆は、兄・片桐且元が大坂城から逃れたときにも同行しており、徳川家康に仕えて大和・小泉藩の初代藩主となった。
その小泉藩を継いだ片桐貞昌(片桐石州)は茶人でもあり、門弟には徳川光圀保科正之松浦鎮信、そして4代将軍・徳川家綱に対しては茶華道の指南役を務めた。
そして、1663年に父の菩提を弔うため小泉に慈光院を創建している。
そのような流れで、駿河の誓願寺にも片桐且元の墓を建てたのかも知れない。
小堀遠州とも親しかったようで、誓願寺の本堂裏にある回遊式庭園も、片桐貞昌の手によるものとある。


スポンサーリンク



境内と墓地だけであれば見学所要時間は10分といったところ。

国指定史跡・国指定名勝になっている柴屋寺とセットでどうぞ。

交通アクセス

バスの場合、JR静岡駅・北口7番線乗り場「しずてつジャストライン」の中部国道線・藤枝駅前行きに乗車。
所要25分で、二軒家大鈩不動尊入口バス停にて降車し、徒歩約5分。
クルマの場合、山門前に約40台ほどの駐車場とトイレがあるので、駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしておく。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂ける。

駿河・丸子城の解説~斎藤安元の居城から今川家の重要拠点となった保存状態の良い山城
片桐且元 豊臣家に尽くすも徳川の「罠」にはめられた結末は?
静岡・柴屋寺の解説「国指定史跡・国指定名勝」である庭園が見どころ

フィードバックする
スポンサーリンク
スポンサーリンク

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。