柳生十兵衛とは 江戸時代に活躍した新陰流の剣豪・柳生三厳

柳生十兵衛

柳生十兵衛(やぎゅう-じゅうべえ)は、1607年生まれの江戸時代の武士で新陰流の発展に努めた武士です。
正式な名前は、柳生三厳(やぎゅう-みつよし)と言いました。
父は、徳川将軍家の兵法指南役となった柳生藩主・柳生宗矩で、母は正室となる松下之綱の娘・おりんです。
松下之綱は、豊臣秀吉織田信長に仕える前に一時家臣になっていた遠江・久野城主と言う縁もあります。



1619年、柳生十兵衛は13歳で、徳川家光の小姓となり江戸城に上がりました。
なお、若い頃の修行中に片目を失明したという伝説があります。
また、正室は秋篠和泉守の娘となりますが、妹として柳生茜がいると言うのが創作上では多いです。
1621年、父・柳生宗矩が、徳川家光の兵法指南役に就任しています。
しかし、1626年、20歳の柳生十兵衛(柳生三厳)は、謹慎処分となり、小田原にて蟄居しました。
この理由はよくわかっていませんが、この謹慎は11年間に及び、その間、柳生の里に赴いたり、兵法を研究したり武者修行をしたともされ、のち創作・物語として多くの話が残った次第です。

1637年、江戸の柳生藩邸に戻ることが許されたようで、禅僧・沢庵宗彭とも親しくし、月之抄など武術書を残しています。

1638年、高齢となった父・柳生宗矩の代わりに、柳生十兵衛(柳生三厳)が徳川家に出仕することになり、江戸城御書院番となっています。
書院番(しょいんばん)と言うのは、徳川将軍を警護する親衛隊のことで、いわばボディーガードのような仕事です。
その後も、修業の成果を伝書に書き残し、徳川家光が兵法上覧会を開催すると、剣術を披露しました。



1646年、徳川家光直々の見舞いも、病が重くなった父・柳生宗矩が死去。享年76。
遺領は徳川家光の裁定により、柳生友矩、柳生宗冬ら兄弟で分知され、柳生三厳は8300石となっため、柳生藩は廃藩となり、旗本に列しています。
その後、役目を辞職すると柳生庄に戻ったとされますが、1650年に急死しました。享年43。
鷹狩の途中に亡くなったと言う事で、検視も行われましたが、死因は不明のまま柳生の中宮寺に埋葬されています。

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