鎌倉城とは~大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台をめぐる諸説

鎌倉城

鎌倉城の概要

鎌倉(神奈川県)は武家の都として知られ、2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台である。
平安時代末より源氏ゆかりの地であり、1063年(康平6年)に源頼義が源氏の氏神である石清水(いわしみず)八幡宮を由比ガ浜の辺りに移した。
源氏と平氏が争った「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」の中、1180年(治承4年)10月に源頼朝が鎌倉に入ると、現在の鶴岡八幡宮から南にのびる若宮大路を中心に武家の都として発展していった。
1333年(元弘3年)、鎌倉幕府が滅亡して1338年(暦応元年)に室町幕府が成立したのちも足利一族を長官(鎌倉公方)とする鎌倉府がおかれ、東国の拠点としての地位を保ち栄え続けた。


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鎌倉は東・西・北の3方を急峻な山に、南を海(相模湾)に囲まれ、その出入口は七つの切通(きりどおし)によって外部と通じ、戦時にはそれを塞ぐことができた。
七つの切通は、極楽寺・化粧坂(けはいざか)・亀ヶ谷(かめがやつ)・巨福呂(こぶくろ)・朝比奈・名越(なごえ)・大仏(おさらぎ)の各切通である。
七つの切通は、V字状に山を断ち切って通路とし、左右の山陵とその中腹には削平地や空堀を造り木戸や柵を設けた。
山陵上には戦略上の重要なところに杉本城・住吉城、枡形遺跡、葛原岡大堀切及び削平地区などの城郭や関連遺構が確認されている。
七つの切通の内は、鶴岡八幡宮から南にのびる若宮大路の左右に街がつくられ、御家人の屋敷や寺社は谷(やと)に、庶民の家は三方の山腹を削平して段々状につくられた。

こうした鎌倉の地の要害さについての記録は中世の諸史料に残され、中には「鎌倉城」という用語もみられる。
例えば、『吾妻鏡』1180年(寿永3年)9月9日の条には、石橋山の戦いに敗れて安房(千葉県)に逃れた源頼朝に対して、千葉常胤は、この地は要害の地ではないので鎌倉に行くことを進言している。
また、九条兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』1183年(寿永3年)10月25日の条に「鎌倉城にいる源頼朝が木曽義仲追討のために兵五万を興し」、同年11月2日の条にも「去月五日に鎌倉城を出発した」と「鎌倉城」の用語がみえる。


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「鎌倉城」は鎌倉幕府の滅亡時や南北朝の動乱期に戦いに3度巻き込まれるが、そのときの記録が『太平記』に残されている。
最初は1333年(正慶2・元弘3年)、新田義貞が鎌倉に攻め入ったときであり、切通の防備が非常に堅固で破ることができず、新田義貞の軍勢は稲村ケ崎の海岸を通って鎌倉に乱入し鎌倉幕府を滅ぼした。
二度目は、1337年(建武4・延元2年)に後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を受けた北畠顕家(あきいえ)が北条時行・新田義興(よしおき)らとともに、足利義詮(よしあきら)が守る鎌倉を攻めたときである。
このとき、北畠の軍勢は朝比奈切通を破って攻め込み、杉本城の守将・斯波三郎家長を討ち死にさせ、「鎌倉城」を落城させた。
三度目は、1352年(文和元・正平7年)に新田義興・脇屋義治(よしはる)らが初代鎌倉府の長官・足利基氏を攻め、一旦は「鎌倉城」を落としたが、足利尊氏が鎌倉に向かったことを聞き、引き払ったときである。
以上のように、鎌倉時代後期から南北時代に「鎌倉城」は三度、戦いに巻き込まれたが、三度とも攻め込まれ、守備側が敗北している。

鎌倉城をめぐる諸説

鎌倉の地を『玉葉』などの史料にある用語どおりに「鎌倉城」という城郭としてとらえることについては、研究者の間でも賛否がわかれている。
「鎌倉城」についての論考は古く、1937年(昭和12年)に鳥羽正雄氏は、鎌倉が「鎌倉城」と一部で呼ばれたものの、城郭に関する遺構が明確ではなく、中世鎌倉には有事の際に防御施設を造ることはあっても、常設的な城郭遺構はなかった、としている(鳥羽正雄 1937)。
1950年代から1970年代にかけては、赤星直忠氏が考古学の視点から研究を進め、、西・北・東の3方を急峻な山地、南を海(相模湾)に囲まれ、戦いのときに塞ぐことかできる7つの切通の存在などから、鎌倉の軍事的性格を積極的に評価した。
1980年(昭和55年)刊行の『日本城郭大系6(千葉・神奈川)』においても、当時の鎌倉地域全体を城郭としてとらえている(平井他 1980)。


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一方、批判も多くあり、岡陽一郎氏は鎌倉周囲の残る「切岸(きりぎし)」状の岸壁や、「堀切」状の尾根開削地、斜面を段切りした「平場」などの遺構を考古学と文献史学の両面から精査した。
その結果、それらの多くは家屋や切通の道・やぐら・採石場などの軍事とは直接関係がない、鎌倉時代から近世、あるいは現代までの生活に関する遺構である可能性が高いとした(岡 2004)。
また、齋藤慎一氏は、『玉葉』など中世前期の史料にみられる「城」の定義について、衣笠城などの当時の城の事例や、発掘調査成果などから当時の城の実像を考察した。
そして、中世前期の「城」は、武家が一族とともに屋敷や墓などを構えて日常生活を送る「本拠地」を表す概念であり、『玉葉』に記されている「鎌倉城」は防御施設としての城郭ではなく、1180年(治承4年)に源頼朝が鎌倉入りしたときに構えた「武家の本拠地」の意味であると解釈した(齋藤 2006)。

発掘調査

鎌倉市内や周辺部では、発掘調査が進み、往時の鎌倉の姿が次々と明らかされており、中には鎌倉の高い防御性を示す事例もある。
例えば、メインストリートである若宮大路周辺の発掘調査では、幕府の公的機関や有力御家人の屋敷地の門が大路側に開かれておらず、脇・横から入る工夫がされていること、屋敷地内にある「やぐら」(当時の墓)は武器・兵糧貯蔵施設としての機能もあったこと、などである。

一方で、城郭としての「鎌倉城」の性格を否定するような発掘調査の事例もある。
鎌倉・逗子市境の丘陵にある名越切通の逗子側にみられる「お猿畠の大切岸(きりぎし)」は、従来から、北条氏が三浦氏の侵攻に備えて築いた、鎌倉時代前期の防衛上の施設であると考えられていた。
それが、2002年(平成14年)の逗子市による発掘調査で、14世紀~15世紀代の建物基礎等に使用したと考えられる石材の石切場であったことが確認され、防衛施設である切岸説に疑問が持たれたのである。
ただし、石切場と確認した逗子市は、大々的な石切りは行ったが、鎌倉の街を守るために、あえて城壁のような崖を残したのかも知れない、と推測している。

また、「鎌倉城」については、行政上の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)として丘陵周辺など市内の広範囲に「鎌倉市No.87 鎌倉城」が設定されている。
鎌倉市御成町39番36地点の「鎌倉城」は、古くから「無量寺」という寺院があった地と伝えられており、2005年(平成17年)・2006年(平成18年)の発掘調査では、方丈(ほうじょう)や庫裏(くり)とみられる礎石建物跡や掘立柱建物跡が検出され、寺院であることが確認された。
他にも「鎌倉城」の名を冠する地点で発掘調査が行われているが、調査結果は「やぐら」や用途不明の平場などで、城郭遺構が検出されていない事例が多い。

『玉葉』などの中世史料にみられる「鎌倉城」をどのようにとらえるかについては、研究者の間でも見解がわかれている。
今後、その実態を解明していくには、「城」という用語の解釈も含めて、城郭史をはじめ文献史学、考古学、地理学、土木学など幅広い視点からの総合的な探究が求められる。


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【参考文献】
岡陽一郎 2004「幻影の鎌倉城」『中世都市鎌倉の実像と境界』 高志書院
齋藤慎一 2006『中世武士の城』吉川弘文館
鳥羽正雄 1937「城郭構造の社会・経済的考察」(『歴史教育12-8』鳥羽 1980『日本城郭史の再検討』に所収
平井聖他 1980『日本城郭大系6(千葉・神奈川)』新人物往来社

(寄稿)勝武@相模

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