御嵩城跡~美濃国

御嵩城跡~美濃国

御嵩城跡(本陣山城・権現山城)について、構造や地形など

【御嵩城】
みたけじょうです。
岐阜県可児郡御嵩町城山にあります。
標高241mの山城で比高は60mです。
御嵩城には、主郭と出城の二つあります。
主郭は「ホンジ山」と呼ばれるここ本陣山城です。
出城は権現山城と呼ばれる、
標高188m、比高は40mの山城です。
この二つを合わせて「御嵩城」となります。

【本陣山城】
【所在地】
〒505-0116 岐阜県可児郡御嵩町御嵩
⇒現在
<御嵩城址公園>
「駐車場」
無料駐車場あり(午後5時で閉鎖)

【権現山城】
【所在地】
〒505-0116 岐阜県可児郡御嵩町御嵩1849
⇒現在
<金峰ふれあいの森>
「駐車場」
無料駐車場あり

【別名】
霧隠城

【築城年間】
【権現山城】
応仁年間(1467年ー1468年)
【本陣山城】
天文年間(1532年-1554年)

【築城者】
【権現山城】
齋藤妙椿
【本陣山城】
小栗重則

【城主】
齋藤妙椿
小栗重則(小栗信濃守(古信濃)重則)
小栗教久(小栗信濃守(新信濃)教久)

【遺構】
【本陣山】
曲輪
【権現山】
曲輪・堀切・虎口・土塁・横堀

【本陣山城】
<御嵩城址公園>を目指して
丘の上を登っていきます。
広い大きな未舗装の駐車場が終点です。
そこから更に坂道と階段を上ります。
階段のみの楽なコースと
砂の坂道と
木の階段の「見た目より体力使う」コースがあります。
なお、楽なコースは御嵩城の案内版の後ろにあります。

現在は頑丈な展望台になっていて、
芝生などで整備されており
「お城?」という雰囲気はあまりありません。
ですが、眺めが素晴らしく、御嵩町を一望できます。
夜間は、立ち入り禁止ですがライトアップされるので
麓からでも、頑丈な展望台を見ることはできます。

【権現山城】
現在は「金峰ふれあいの森」となっていて、
その公園内にある金峰神社付近が
権現山城とのことです。
「金峰ふれあいの森」
は自然そのままに「森の施設」として
整備された公園なので、
遺構としては本陣山城と比較して、
しっかりと残っているとのことです。
トイレや駐車場もきちんとあります。
夏場は草木が生い茂り、
薄暗くなってしまっています。
紫陽花や桜や紅葉を
楽しめるように整備した公園、
ということなので、
それらの花が咲く時期に訪れるのか
いいかもしれません。

なお、<金峰ふれあいの森>は
同じ名前の施設が長野県南佐久郡にあるので
検索する時など、
お間違えのないようにお気を付けください。

※下の写真は本陣山城で、
「見た目より体力使う」コースです。

御嵩城の歴史・権現山城の築城~斎藤妙椿~

御嵩城は最初は権現山城の方だけでした。
室町時代の応仁年間(1467年ー1468年)に
斎藤 妙椿(さいとうみょうちん)によって築城されたと伝わります。

【斎藤妙椿】
【生誕】
応永18年(1411年)
【死没】
文明12年2月21日(1480年4月1日)

【生い立ち】
美濃守護代・斎藤宗円の子として誕生しました。
兄の斎藤利永が死去にともない、
甥である新守護代・斎藤利藤を
後見するために還俗しました。
後に室町幕府奉公衆になり、
官位も土岐成頼の従五位下を超えて
従三位権大僧都に昇っています。

文明11年(1479年)2月に
可児郡明智で隠退して、
文明12年(1480年)2月21日に死去しています。

※下の写真は本陣山城の展望台からの眺めです。

御嵩城の歴史・権現山城及び本陣山城~小栗重則・小栗教久~

時代は戦国時代になり、
小栗重則(小栗信濃守(古信濃)重則)が
御嵩城主となりました。

最初は権現山城のみでしたが、
この時代の美濃は戦続きでした。
そこで、より強固な防衛力を図るために、
天文年間(1532年ー1554年)に
本陣山城を築城したと推測されています。

天文21年(1552年)もしくは
1556年に土岐高山城主である
高山光俊(高山伊賀守)が亡くなると、
土岐高山城を攻撃しました。
城に攻め入るも形勢不利となり、
小里城の小里出羽守光忠と
明知城の明知遠山景行の軍勢に攻め込まれ、
更には武田信玄の命を受けた
平井光行と平井頼母の親子からも攻撃を受け、
ついに御嵩城は陥落しました。
小栗重則はそのため自刃しました。

この合戦で小栗氏は滅んだわけでなく、
子供の小栗教久(小栗信濃守(新信濃)教久)が
御嵩城の城主となっています。

そして小栗教久は
土岐 定政((ときさだまさ)又は(明智定政))の父親である
土岐定明が暗殺された時に
居城を攻撃して落城させています。

小栗氏教久は織田信長に協力し、
森可成の配下として1565年には
東濃の攻略に従軍していました。
この地域は東農勢だけではなく、
甲斐の武田の侵攻もしばしばありました。
そのため武田の軍勢に御嵩城は包囲されます。
ところが御嵩城には大蛇が住んでおり、
蛇神の加護があると昔から囁かれていました。

武田勢が石垣を登ろうとすると、
石垣の隙間から白い霧が出てきて見えなくなり、
攻撃できなくなったとの伝承があります。
地元では権現の使者である「白蛇」が霧を
発生させたと信じられているそうです。

そこで武田勢は牽制するために、
御嵩城の直ぐ近くに小原城(可児郡御嵩町小原)を
築城しました。

そうしたわけで御嵩城は、
美濃の金山城と同様に織田勢の最前線となったのでした。
1574年には、
美濃の明知城を救援するために軍を率いてきた
織田信長・織田信忠親子が御嵩城に
宿泊しています。

慶長5年(1600年)、
美濃の金山城の城主である森忠政
川中島に移封されると、
金山城と共に、御嵩城も廃城となりました。

土岐定政について・土岐氏流明智氏の系統で明智土岐氏の祖

土岐 定政(とき さだまさ)は、土岐氏流明智氏の系統です。
天文21年(1552年)6月に、
父親である土岐定明が、
惣領家の美濃守護土岐頼芸
家臣の斎藤道三の間の内紛に巻き込まれ、
それに乗じた弟の定衡(定政の叔父)
によって殺害される事変が起こりました。

その時に、居城を攻撃したのが小栗教久でした。

落城後、土岐定政はまだかなり幼く、
愛菊丸と名乗っていました。
土岐定政は、外祖父の菅沼定広を頼って落ち延び、
母方の叔父である菅沼定仙の養嗣子となりました。
そのため、菅沼藤蔵と称することになりました。

永禄7年(1564年)に徳川家康に招聘されてその家臣となり、
徳川家の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、
徳川家康から武勇に優れた武将として賞賛されました。
やがて天正10年(1582年)、
甲斐巨摩郡切石に1万石を与えられて大名となります。
そこで、亡父である土岐定明の跡を継ぐ形で
明智定政と改称しました。

更に豊臣秀吉からもその武勇を賞賛されます。
文禄2年(1593年)には、
従五位下、山城守に叙任された上、
鈞命により、惣領家の土岐頼芸によって
没落した土岐家の跡を継いで、
大名として再興することが許されます。
そこで明智定政から土岐定政に改名し、
ここに明智土岐家が誕生したのでした。

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