比企尼の謎の出自や出身を調査~大中臣倫兼の長女か?

比企尼

比企尼の出自

比企尼(ひきのあま)は、平安時代末期の女性です。
しかし、この比企尼がいなかったら、源頼朝は、鎌倉幕府を起こせなかったかも知れないくらい、武家政権樹立に、大きく貢献した女性でもありました。
ところが、比企尼の生没年や出自は不明でして、とても気になるところです。
この記事では、史料にある記述に基づき、記載されていることから、比企尼の出自や出身に関して、時間をかけて調べた結果を記載することと致します。


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まず、比企氏と源義朝(源頼朝の父)の関係ですが、下記の通りになります。
1141年、源義朝の嫡男・源義平が誕生すると、秩父党の秩父重綱の後妻である児玉党・児玉経行の娘が、乳母を務めています。
恐らくは、武蔵・菅谷館で、育ったものと推測されます。
その菅谷館がある場所は、武蔵国比企郡でして、まさに、比企氏の本拠地からも近い場所でした。
比企氏の租は、相模・波多野一族である波多野遠光で、康和年間(1099年~1104年)に比企郡に移ったのが始まりとされます。
そして、比企遠宗の館が、三門館と言う事になりますが、秩父重弘(畠山重弘)の畠山氏館とは、直線距離で8kmくらいしか離れていません。

三門館(みかどやかた)

三門館から菅谷館も、同じく直線で8kmくらいです。
そして、比企氏は、武蔵国惣検校職としてこの地を支配していましたので、少年期から相模・武蔵などに滞在していた、源義朝(源頼朝の父)と、比企氏の親交も、当然あったものと容易に考えられます。
このようにして、比企尼に、源頼朝の乳母の役目が、まわってきたことと推測されます。

さて、熱田大宮司・藤原季範の娘「由良御前」(由良姫)が、1147年、源頼朝を出産する際、三善康信の母のが、藤原季範の別邸(現在の愛知・誓願寺)に呼ばれて、源頼朝の教養などを担当する乳母となりました。
吾妻鏡などによると、乳母(めのと)になった女性は、ひとつではなく、少なくとも、比企尼、寒河尼、山内尼(摩々局)の3名が伝わります。
寒河尼は、八田宗綱の娘で、小山政光の後妻となり、結城朝光の母であることがわかっています。
山内尼(摩々局)は、中村党(中村氏)の娘と推測され、山内首藤俊通の妻となり、山内首藤経俊を産んでいます。
しかし、比企尼は、嫁いだ先が比企掃部允(ひき-かもんのじょう)であること以外、出自は不明です。
この他に、名前はわかりませんが、別の史料での乳母は、三善康信の母のと言う記述もあります。
この「三善康信の母の」は、比企尼、寒河尼、山内尼とは別にもう1人女性がいた可能性もありますが、この3名のうちのひとりを指している可能性も高い訳です。
もし、三善康信の母のが、比企尼、寒河尼、山内尼の3名のうちの誰かだとすると、出自がハッキリしない、比企尼が、三善康信の母のである可能性も考えられます。

他にも、毛呂季綱の父・毛呂季光は、藤原季光とも言い、源頼朝が伊豆にて流罪となっていたときに、助けたことがあると吾妻鏡にありますので、比企氏と藤原季光の関連も気になります。


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実際、源頼朝が伊豆に流罪となっていた際に、比企尼から頼まれて、毎月3回、京都の情勢(平氏の動向など)を源頼朝に知らせていたのは三善康信です。
源頼朝が挙兵を決意したのも、三善康信からの知らせで、源氏が捕縛されるかもしれないと言う情報を得たからでした。
そして、鎌倉幕府が成立すると、三善康信は京から呼ばれて、初代の問注所執事と言う重職についています。
どうして、三善康信が、比企尼の依頼を受けていたのか?
単純に考えれば、血縁があった(親戚だった)から、協力したと言う事になります。
三善康信の母のが、比企尼である可能性もある訳です。

そこで、この記事では、比企尼が、三善康信の母のである可能性を追求して、さらに詳しく調べてみました。


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大中臣倫兼の娘?

まず、カギになるのは、前述のとおり三善康信の存在です。
三善康信(みよし-の- やすのぶ)は、1140年に、三善康光(三善康久)の子として生まれました。
父・三善康光は、神祇官祝師・大中臣倫兼の次女と結婚しています。
<注釈> 神祇官祝師は、朝廷での祭祀を司っていた可能性も。
その大中臣倫兼の次女が、三善康光(三善康久)に嫁いで産んだのが、三善康信とも考えられます。
となると、大中臣倫兼の次女のが、比企尼である可能性も想像できて参ります。
比企尼は、大中臣倫兼の長女とも?考えられるのです。

そもそも、大中臣氏(おおなかとみうじ)は、日本古代から、中央政権にて祭祀をつかさどった貴族で、先祖は中臣鎌足になります。
平安時代中期には、神祇伯や伊勢祭主を世襲していました。

神祇伯(じんぎはく)の意味は、律令における神祇官の長官 (かみ) のことで、神祇の祭祀・卜兆のことや祝部・神戸の名籍の管理などを行っていました。
しかし、残念ながら、大中臣倫兼(おおなかとみ-の-ともかね)に関しては、調べても、詳細は不明です。
これだけ調べても、出て来ないと言う事は、大中臣倫兼は、宗家からはずれた一族だったのかも知れません。
ともあれ、熱田大宮司の娘・由良御前が、源氏の子を出産する際に、伊勢祭主関連の長女が呼ばれても、おかしくは無いところです。


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他にも大中臣(おおなかとみ)氏で、源頼朝から鎌倉に呼ばれた人物としては、大中臣秋家(中原秋家)がいます。
1184年、大中臣秋家(中原秋家)は、公文所・寄人(よりゅうど)に任じられました。
1193年、一条忠頼に従っていた中原秋家は、土佐国香美郡宗我・深淵郷(ふかふちごう)の地頭となり、戦国大名の香宗我部氏に繋がっています。
中原氏は一族がたくさんいて、よくわかりませんが、鎌倉幕府の官僚になり、十三人の合議制メンバーになった、中原親能大江広元も、京から鎌倉に来た中原氏です。

このように、他にも大中臣氏がいる線から調べなおしますと、下記の通りです。

まず、1072年生まれの祭主として、大中臣親仲(おおなかとみ-の-ちかなか)がいます。
母は、三善章経の娘とありますので、三善氏との繋がりもあったことがわかります。
この大中臣親仲は、1140年に没しており、跡は大中臣親隆(おおなかとみ-の-ちかたか、1105年~1187年)が継いだようです。
ただし、源頼朝が生まれた頃の伊勢神宮祭主は、叔父・大中臣師親だった模様です。

吾妻鏡によると、1182年3月、伊勢神宮の神官である大中臣能親(大中臣の能親)が、熊野の悪僧たちの暴力沙汰を起こしているのを、中八維平(由利維平か?)に知らせたとあります。

出ましたね。
大中臣能親と言う人物ですが、だいたい、大中臣氏は「親」と言う字を使う事が多いです。
しかし、一部の一族には「」と言う字を使っている者も、少しだけではありますが、見受けられます。


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こうなって参りますと、比企尼が養子にしたと言う、比企尼の甥とされる「比企能員」の存在が気になります。
恐らくは、比企尼の姉妹になる、その姉妹が嫁ぎ先で産んだ子供のひとりを、比企氏の跡取りとして迎えて、源頼朝を助けることにしたと考えられるのですが、比企能員に関しても、出自が全くわかりません。
一説では、比企能員の出身は安房国ともされますので、それだ正しいとすると、伊勢を中心とした、大中臣氏の関連が薄くなってしまいます。
例えば、千葉県の香取神社の神官も、平安時代末期まで、大中臣氏が独占していますが、香取神社は安房ではなく、下総国なんですよね。

藤原公員の妹?

別の出自として、古代氏族系譜集成では、下記のように記述されています。

掃部允遠宗(比企郡司、実は藤原有清男。妻藤原公員妹・号比企尼、頼朝公乳母)―藤四郎能員(比企判官、実は藤原公員男。兄は比企藤内朝宗。妹は惟宗広言妻・島津忠久・忠季を生む)

要するに、比企掃部允遠宗の妻は、藤原公員の妹・比企尼で、源頼朝の乳母を務めたと言う事になります。
しかし、藤原公員が、どの藤原氏なのか?が、これがよくわかりません。
とにかく、藤原氏は人物が多すぎるし、もしかしたら、違う姓名にて、現在、伝わっている可能性もあります。
さらに、藤原公員じたい、どこかの藤原一族の庶家の子、すなわち直系に近くなかった支族のようで、ほとんど伝わっていないのです。


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100年くらい前の人物に、藤原公員が見られますが、時代が合わず、年代の裏付けが取れません。
比企氏は、藤原氏の中でも、阿波・佐藤氏から養子を迎えていますので、その線から、佐藤姓・佐藤公員として調べてみても、わかりませんでした。
ただ、この時代、藤原北家の藤原氏でも、名前に「」の字を比較的、よく使用しているのに気が付きました。
徳大寺公能(とくだいじ-きんよし)などの大徳寺氏にも「公」が多く、京では、はやりの漢字だったようだ。
ただし、地方では「公」の字は、少ないように感じるますので、藤原公員は、京にいた人物であったと言えるかと存じます。
また、比企尼の長女・丹後局は、京の官僚・惟宗広言の妻になっているので、比企氏じたいが最初、京にて暮していた可能性も高い。
そのため、比企尼の兄・藤原公員は、京にて生活している藤原氏か、領地は地方でも、武士として京にいた佐藤一族の関係者だと考えられます。
となると、比企の尼の甥とされる、比企能員も、京の藤原氏・佐藤氏関連が出自だと考えるのが、妥当となるでしょう。

比企尼の娘が、河越重頼安達盛長に嫁いだのも、領地が近いと言う事もありますが、近くにいた藤原氏の同族に嫁がせて一族の結束を固めた言えます。

藤原範季が縁者?

比企尼が、源頼朝の弟・源範頼を、匿い、武蔵国比企郡の安楽寺(吉見観音)に入れていたという伝承があります。
しかし、その源範頼は、1161年からは、京にて後白河法皇の近臣である藤原範季(ふじわら の のりすえ)の養子になったようです。
そして「範」の字を与えられたものと推測できます。
突然、公卿の藤原範季が源範頼を養育していることから、もしかしたら、比企尼と藤原範季は「親戚」である可能性もあるでしょう。
ひょっとしたら、比企尼と藤原範季は兄弟?なのかも知れません。
平清盛の全盛期に、源氏である源義朝の子を、喜んで、養育するとは、とても思えません、
リスクを承知で、源範頼を養育するだけの、何か理由があったように感じます。
その他、藤原範季は、1186年、腰越状のあと京に入って、興福寺に潜伏中の源義経と接触すると、一時、匿まっています。
このように、京では、藤原範季が、源氏を手厚く保護していることから、比企尼とも近い存在だった可能性が、あるかも知れません。
となると、比企能員も、藤原範季の縁者だったかも知れません。


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以上、比企尼や比企能員に関しては、何十時間も費やして、調べに調べたのですが、行き詰りまして、上記以上に、関連性を示すものは、見つかりませんでした。
不完全燃焼でして、良い結論に達するには、至りませんでした。

根拠は弱いですが、可能性の「まとめ」としては下記の通りです。

比企尼は、朝廷?で祭祀を担当していた、大中臣倫兼の長女の可能性がある。

比企尼は、藤原公員の妹で、比企能員も、藤原公員の子の可能性がある。

比企尼と、藤原範季は親戚(縁者)だった可能性がある。


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以上、不明点が多々あり、上記にて記載してることが、すべて、正しいと申し上げている訳ではありません。
可能性のひとつとして、ご理解のほど、賜りますと幸いです。
比企尼の出自などに関して、皆様の予想などございましたら、下記のコメント欄に、お寄せ頂けますと幸いです。(後日公開になります。また、当方より、コメント内容に返信するようなことは、自粛致しますので、ご容赦願います。)

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