溝尾茂朝(みぞお-しげとも)は、溝尾庄兵衛とも言う古くから明智家に仕えていた家来のようで、1538年生まれのため、明智光秀よりは10歳程度若かったようです。
明智光秀が山崎の戦いにて羽柴勢に敗れて、坂本城へ逃れる際に、落ち武者狩りに遭い、そのとき、怪我を負った明智光秀を介錯したのが、この溝尾茂朝(溝尾庄兵衛)とされます。
溝尾茂朝の初見は1568年に、明智光秀が織田信長に対して、足利義昭を紹介した際の家人として登場しています。
ただ、もともと三沢姓だった模様で、1573年に朝倉氏を滅亡させた際の代官として、明智家の三沢秀次や三沢秀儀がいますが、もしかしたら、溝尾茂朝と同一人物、もしくは兄弟などかもしれません。
1582年に明智光秀が安土城で徳川家康の接待役を務めた際には、溝尾茂朝もそばにて主君を補佐したとされています。
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また、本能寺を襲撃する計画を明智光秀が家臣に相談した際には、明智秀満、明智光忠、斎藤利三、藤田行政らと共に溝尾茂朝も加わっており賛成しました。
落ち武者狩りの際、溝尾茂朝は竹やぶに光秀の首を隠して、坂本城に逃れるも自刃したとされています。
ただ、この部分の話も諸説あります。
光秀の首を、家来に託して坂本城にて自刃したとも、その場で果てたとも、首は百姓に見つかってしまい、織田信孝に差し出されたともされ、よくわかりません。
いずれにせよ、溝尾茂朝は享年45。
明智光秀の最後にて重要な役割を果たすため、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも、欠かせない重要な家臣と言えます。
明智光秀の首塚
下記は、明智光秀の首塚がある亀山の谷性寺(こくしょうじ)で、住所は亀岡市宮前町猪倉土山になります。
真言宗大覚寺派の寺で、創建は平安時代とも鎌倉時代ともされますが不詳です。
6月下旬から7月下旬の初夏には門前にある花畑に、明智家の家紋である桔梗が咲き乱れ「ききょうの里」として多くの観光客が訪れるそうで、桔梗寺とも呼ばれることがあります。
ただ、この時期だけ有料拝観となるようです。
明智光秀は丹波平定した際から、谷性寺のご本尊・不動明王を厚く崇敬しました。
織田信長を討つために、本能寺へ出陣した際にも「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願したとされています。
谷性寺は、別名を光秀寺とも言うくらい、明智光秀にゆかりあるお寺さんです。
ただ、下記の通り、そんなに大きな寺院ではありません。
下記が、谷性寺にある明智光秀の首塚です。
なかなか立派な状態で、なおかつ、境内のわかりやすいて場所にて供養されていました。
明智光秀の首は、介錯した溝尾茂朝(溝尾庄兵衛)が家来に託し、生前信仰していた谷性寺に運ばれたとされています。
命日にあたる6月14日にには、毎年回向が行われているようです。
また、毎年5月3日には開催される「亀岡光秀まつり」では、追善供養もあります。
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谷性寺への交通アクセス・行き方ですが、JR山陰本線(嵯峨野線)の亀岡駅にて下車してバスになります。
亀山駅前から、京阪京都交通のバス「八田経由園部駅西口」行きて約30分、猪倉バス停で下車し、徒歩5分となります。
駐車場は、門前に5台ほどの未舗装駐車スペースがありました。
場所は当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。
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