源頼朝上陸地の考察「安房・房総」再起再生の人気スポット・鋸南・洲崎

源頼朝上陸地

平安時代末期1180年、伊豆にて挙兵するも、8月23日、石橋山の戦いにて敗れた源頼朝は、しとどの窟などに隠れたあと、真鶴半島にある源頼朝船出の浜から、相模湾を船で横断し、安房国(房総半島)へ向かいました。
1槽の小舟(平舟)に、武将2名程度と、漕ぎ手3名の組み合わせだったようです。

真鶴「しとどの窟」源頼朝船出の浜(岩海岸)~石橋山の戦いのあと安房に出航

そして安房(千葉)での上陸地点は、1箇所ではなく、2箇所ほどの伝承があります。
源頼朝上陸地は「再起再生の地」としての御利益があるともされ、再起を計りたい方へはお勧めの観光スポットです。
しかし、果たして、どちらの可能性が高いのか?、この記事では、信頼性も検証するため、実際に現地も訪問させて頂きました。

源頼朝上陸地(鋸南)

まず源頼朝(34歳)が上陸したと伝わる、千葉県安房郡鋸南町竜島の源頼朝上陸地です。
鋸南は「きょなん」と読みます。
吾妻鏡によると、8月28日早朝、真鶴から出航した源頼朝や土肥実平らは、翌日の8月29日、猟島に到着したとあります。

源頼朝上陸地(鋸南)

湯河原・城願寺に伝わる「七騎落ち」の伝承では、源頼朝の小舟船団に従ったのは、安達盛長岡崎義実新開忠氏土屋宗遠・土肥実平・田代信綱となります。
その前日には、先に岡崎義実、北条時政北条義時、近藤国平らが出航し、上陸地での受け入れ準備を行った模様です。
上陸した猟島は、現在の竜島海岸(りゅうしま-海岸)と考えられ、島の名前ではなく、地名になります。

源頼朝上陸地の石碑(鋸南)

なお、石橋山の戦いに間に合わず、畠山重忠河越重頼・江戸重長らに攻撃され、衣笠城にて敗れた三浦義澄佐原義連和田義盛ら三浦一族は、8月27日に落城していますので、先に、房総に渡っていたと考えられ、源頼朝らに合流しました。
<注釈> 北条時政は、武田信義(源信義)に援軍要請のため、甲斐に行っていたとする説もある。(北条義時が行っていたのかも?) のち、北条時政は武田信義と共に駿河に進攻して、富士川の戦いに合流している。

源頼朝上陸地の石碑(鋸南)

なお、竜島に上陸する際に、源頼朝は、サザエをふんで、足にけがをしたとあります。
上陸でケガをするのは、さいさきが悪いことなので、源頼朝は怒って「竜島のサザエに、つのなど無くなってしまえ」と怒鳴ったとされます。
それからは、竜島のサザエには、つのが無くなってしまったと言われます。


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石橋山合戦で敗れ、しかも舟で移動しての逃走先ですので、源頼朝らも、不安で一杯だったことでしょうが、約1ヶ月の間に、味方する安房・上総の武将らを集めるのに鋸南から成功して行きます。
三浦党の和田義盛は、出世欲が強かったのか?、景気づけの意図があったのか?、気が早いことに源頼朝に「侍所の別当」を希望し承諾を得ました。

神明神社(鋸南)

鋸南に上陸した源頼朝は、神明神社で休憩・宿泊したとされます。
そして、安房の豪族たちに対し、味方するよう書状を書きました。
9月1日、安西景益に書状を送っています。
9月3日には、石橋山にて大庭景親の軍勢に加わっていない、小山朝政、下河行平、豊嶋清元、葛西清重らに参陣するよう手紙を出しています。

神明神社(鋸南)

この頃、竜島は18戸の民家があったそうで、住民らは衣服や食料を提供したため、喜んだ源頼朝は、住民らに「姓」を与えました。
左右加 (そうか)、馬賀 (まが) のほか、渡船の水夫には、艫居(ともい)、間、渡といった姓名。
地元で現在にも残る竜島七姓として、菊間、柴本、中山、久保田、鰭崎(ひれさき)、生貝(いかがい)、松山があります。


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左右加・馬賀に関しては、下記のような伝承があります。
もてなしてくれた村人に対して、源頼朝は感謝し「わしが天下をとったなら、おまえたちに安房一国を与えよう。」と言ったそうです。

神明神社(鋸南)

しかし、村人は「安房一国」(あわいっこく)を、穀物の粟一石(あわいっこく)と勘違いしたようで「粟なら畑で取れます。それより私たちに姓をください。」と申し出たとされます。
そのため、源頼朝は「そうか。ばかだなぁ」と言いったところ、村人は、それが賜った姓だと勘違いし、左右加(そうか)、馬賀(まが)と名のるようになったとされます。


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上総の最大勢力、大柳館主・上総広常が受け入れると言う事で源頼朝らは、9月3日、陸路、東へと平北郡猟島を出発しました。

交通アクセス

JR安房勝山駅から、徒歩15分くらいです。
鋸南・源頼朝上陸地の石碑がある左側に、無料駐車場があり、公衆トイレもあります。
ただし、海釣りをする方が、多く止めており、夏には海水浴場にもなるため、駐車場は常に混雑気味です。
神明神社にも、徒歩3分くらいで、行けますので、セットでどうぞ。

下記では、もう1箇所の伝承がある、洲崎の源頼朝上陸地をご紹介いたします。

源頼朝上陸地(洲崎)

もう1箇所、源頼朝が上陸したと伝わる、千葉県館山市洲崎の源頼朝上陸地です。
洲崎は、房総半島では南端に使い場所で、最西端となり、相模湾に突き出た箇所となっています。
源平盛衰記と義経記(ぎけいき)によると、上陸地点は洲崎(すざき)だとしています。

源頼朝上陸地(洲崎)

なんでも、最初に安房に漂着した場所が洲崎とのことです。
洲崎の場合、栄の浦に上陸したと考えられ、現在は栄の浦漁港となっています。

8月28日夕方に上陸して夜を明かすと、再び船にて館山湾(小湊の渡し)を横断し、館山・那古観音に参拝してから、猟島(竜島)に到着したとあります。

真鶴を8月28日早朝に出航していますので、その夕方に洲崎に到着したのは、充分にあり得ます、
実際、吾妻鏡では、鋸南に到着したのは、8月29日となっています。


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洲崎でも、源頼朝らを助けた漁師に、平島の姓を与えたという話があります。
また、源頼朝に、鍋の穴を綿で塞いで食事を供したため「綿鍋」の姓を賜ったと言う伝説もあるようです。

考察

鋸南町の源頼朝上陸地は、位置的に、三浦半島から真東に向かうと、約15kmでして、最短距離と言えます。
人が歩くほどのスピードで舟を進めたとすると、約3時間で、浦賀水道を渡れる計算です。

真鶴半島からだと、鋸南町の源頼朝上陸地も、洲崎の源頼朝上陸地も、距離的には、ほぼ変わりません。
しかし、真鶴からだと距離は約90kmでして、当時の小舟で15時間~20時間は掛かるものと考えられます。
となると、8月28日の早朝に真鶴を出て、夕刻に洲崎に到着したと言うのは、充分に考えられます。

しかし、なぜ、上陸地の伝承が、2箇所あるのでしょう?
「火の無い所に煙は立たぬ」という、ことわざがあるように、源頼朝の上陸地が、どっちだったのか?は、両方とも正解である可能性があるとしか言いようがありません。
しかし、三浦党(三浦氏)が、久里浜の怒田城から逃れたのは、恐らくは鋸南町であったことでしょう。

1日~3日くらい前に、三浦一族は先に安房に逃れていたとも考えられますので、まずは、頼りになる三浦勢と合流することを考えますと、集合地点は、鋸南の可能性があります。
しかし、上記でもご紹介したとおり、前日、洲崎に一旦上陸し、翌日、鋸南を目指した可能性は充分に考えられるでしょう。


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なお、洲崎では、仁右衛門の舟が現れて、その案内にて北条時政・三浦義澄が待つ、竜島に辿り着いたとの伝承もあるようです。
仁右衛門は「平野」という姓を与えられ、仁右衛門島の漁業権と仁右衛門島を安堵されました。
その鴨川市の仁右衛門島が、源頼朝の上陸地点だとする話もあります。
ただし、仁右衛門島は、その後の部分で関わっていると考えられるため、別の記事にてご紹介させて頂きます。

矢尻の井戸

上陸した源頼朝らは、水を求めて、矢尻で地面を一突きしたところ、水が湧き出たとされる井戸になっています。

矢尻の井戸

その矢尻の井戸の左側にある空き地に、洲崎の源頼朝上陸地石碑があると言う事になります。

矢尻の井戸

梶原景時の乗馬・磨墨と、一の谷の戦いでの、鵯越(ひよどりごえ)で源義経が乗馬していた太夫黒は、洲崎が産地だったとされます。

洲崎神社

吾妻鏡では、上陸後の源頼朝は、洲崎神社に参拝したと書かれています。
安房国の一宮である洲﨑明神にて、目的達成の暁には、江戸・神田の領地を寄進するとの願文を奉納しました。

洲崎神社

のち、室町時代に、太田道灌が江戸に分霊・勧請したのが、神田明神であるとも、伝わります。

気になるのは、吾妻鏡によると、上陸したあと、洲崎の洲崎神社を訪れたのは9月5日とあります。
その前日9月4日には、上総広常と千葉常胤に参上するよう使者を送りました。
藤九郎盛長(安達盛長)が、千葉胤頼(東胤頼)と千葉常胤の千葉氏館(亥鼻城)を訪問しています。
その使者が無事に役目を果たすよう、翌日、洲崎神社を参拝すると、使者が無事帰還した際には、江戸の神田を寄進するという願文を奉納したと言う事になります。
実際、神田を9月12日に寄進しました。


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上記の鋸南でご紹介したとおり、源頼朝らは、9月3日に、鋸南の猟島(竜島)を出発して、上総・一宮を目指したようです。
ただし、9月3日の夜半に、長狭の長狭常伴が、宿舎を襲うとの情報が入ったようで、三浦義澄らが、派遣されたと考えられます。
9月4日、宿舎(旅館)に安西景益が安房の豪族らと参上しました。
そして、長狭氏のように襲撃する者もいるため、まずは、使者を出して、味方する者は、迎えのために参上させたほうが良いとの助言を受けると、藤九郎盛長(安達盛長)を千葉常胤に、和田義盛を上総広常へと派遣したようです。
また、もしかしたら、北条時政を甲斐の武田信義へ派遣したのも、この頃だったのかも知れません。
木曽義仲には、文覚を送りました。
そして、源頼朝は勝山に戻ったあと、館山湾を横断して、9月5日に洲崎神社を参拝したと言えます。
9月6日の夜、和田義盛が戻り、上総介広常は、千葉介常胤と相談してから態度を決めるとの返答だと伝えました。


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一方で、外房の長狭(ながさ)にて、平家に味方している豪族・長狭常伴(ながさ-つねとも)とは、一戦場にて戦闘となりました。
長狭六郎常伴とは三浦義澄らが戦ったとあります。
ただ、その合戦の日にちが9月3日となっているのは、ちょっと、疑問が残ります。
恐らくは、9月3日に出陣して、2日後くらいに合戦になったと捕らえてよいかと存じます。

一戦場

いずれにせよ、この勝利により、丸信俊、沼氏、神余氏(かまなり-し)など、安房の武将の多くは、源頼朝に味方しました。
そのため、源頼朝も、上総広常などの参陣を待たなくても、安全に行動できるようになったため、再び、勝山に引き返したようです。

日にちは不明ですが、房総半島の最南端・野島崎では、突然雨が降ったので、源頼朝が岩屋の中に身を寄せて雨を凌いだと伝わる「伝説の岩屋」もあります。


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9月9日、安達盛長が戻り、千葉氏の味方を報告。
9月10日、丸信俊の案内にて、安房の「丸の御厨」(まるのみくりや)を視察。
9月12日、洲崎神社に神田の水田を寄進。

そして、9月13日、体制を整えた源頼朝らは、300余騎にて、北上して、千葉氏と合流するのでした。
上総介広常、畠山重忠らも駆けつけ、江戸川を渡る頃には大軍となり、1180年10月6日、鎌倉に入っています。

交通アクセス

源頼朝上陸地(洲崎)と、矢尻の井戸は、隣どおしの立地です。
JR館山駅からJRバスに乗車し、矢尻の井戸前バス停にて下車してすぐです。
ただし、付近に駐車場がありません。
カーブもあるところですので、道路にクルマを止めないよう、ご配慮願いたく存じます。

洲崎神社には、鳥居を入って左側に、参拝者用の無料駐車場があります。

場所などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
スマホで表示して、検索窓から探し、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

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