織田信忠とは 5分で生涯の活躍をご紹介

織田信長・織田信忠親子の墓石

織田信忠(おだ-のぶただ)は、清洲城主・織田信長の嫡男として戦国時代の1557年に生まれました。
母は、生駒家宗の長女・生駒吉乃(久庵慶珠)とされます。
乳母は、滝川一益の親族ともされる慈徳院(じとくいん)です。
生駒吉乃は織田信長の寵愛を受けたとされ、1558年に織田信雄、1559年に徳姫と、子宝に恵まれました。
ただし、乳母の慈徳院も、のち織田信長の娘・三の丸殿を産んでおり、成人した三の丸殿は豊臣秀吉の側室となって伏見城の三の丸に住まいを与えられています。


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なお、織田信忠より3年前に、織田信長と塙直政の妹の間に、織田信正(おだ-のぶまさ)と言う兄が産まれていたともされます。
この織田信正は、古渡城を任されましたが、庶子だったため、のち信頼厚い村井貞勝の養子となって、村井重勝と改名すると、32歳のときに京都・見性寺に入ったともされます。
このような経緯もあり、いずれにせよ織田信忠は嫡男として育てられました。
また、苗木城主・遠山直廉と、織田信長の姉か妹(苗木勘太郎室)が産んだ娘を、織田信長は養女とします。
そして、武田信玄と婚姻同盟を結ぶために、織田忠寛(織田掃部助)を派遣して、武田信玄の跡取りと目された武田勝頼と婚姻を結ばせました。
甲陽軍鑑によると、1565年に武田家に嫁ぎ、1567年に武田信勝を設けたとありますが、その出産の際に、遠山直廉の娘(織田信長の養女)は亡くなったと言います。

そのため、織田信長は、武田信玄との同盟を維持するため、今度は、織田信忠(11歳)と武田信玄の6娘・松姫(7歳)(信松尼)との婚約を成立させました。
2人ともまだ子供だったため、婚約のみとなり、武田家は「信忠正室を預かる」として取り扱っています。
しかし、1572年、武田信玄は西上開始し、浜松城徳川家康三方ヶ原の戦いになりますが、この時、徳川家の要請を受けて、織田信長は援軍を派遣しました。
更には武田信玄も陣中で死去したため、織田信忠と松姫の婚姻は自然解消となり、武田勝頼からの和睦も、織田信長は拒否しています。

織田信忠は元服すると、石山本願寺との戦いや、武田家との岩村城の戦い、伊勢長島の戦いと経験を積みます。
そして、1575年、長篠の戦いにて、大勝利となったあと、織田信忠は追撃の総大将を命じられて、蜂屋頼隆河尻秀隆森長可、佐藤秀方、斎藤利治らと岩村城を攻撃し、武田勢1100を討ち取り、秋山虎繁(秋山信友)を降伏させました。

着実に、織田家の後継者として認められるようにもなり、1576年には、織田信長の正室・濃姫を養母とし、正式な嫡子となって形式的ながらも家督を譲られると、岐阜城に入り、美濃・尾張を統治しました。
この時、斎藤道三の末子とされる、斎藤利治が、織田信忠の側近としてつけられています。


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1577年には、雑賀衆根来寺を攻めて、鈴木重秀(雑賀孫一)を屈服させました。
また、松永久秀が謀反を起こすと、信貴山城の戦いで織田信忠は総大将となり、先陣の明智光秀・羽柴秀吉・ 筒井順慶細川藤孝佐久間信盛丹羽長秀ら、そうそうたる家臣を指揮しています。
これに満足した織田信長は、以後、織田家の主力が出陣する際には、織田信忠に任せています。

1580年には、側室・塩川長満の娘・鈴が、三法師(織田秀信)を産んでいます。
完成した安土城でも、本丸の手前、城で2番目に重要な広い部分に、織田信忠は屋敷を与えられています。

そして、上月城の戦いでは、備中・高松城に本陣を置いて吉川元春小早川隆景・宇喜多忠家・村上水軍と対峙し、荒木村重が寝返ると有岡城の戦いでも活躍しました。

このように、織田信忠も偉大な父の期待に答えようと懸命に働いたようで、1582年、甲斐攻めでは、織田信長の精鋭部隊が甲斐に入る前に、河尻秀隆・滝川一益・森長可・毛利長秀らと共に、武田勝頼を自刃に追い込むと言う破竹の勢いで蹴散らしました。

父からも甲斐攻めでの働きを賞賛され、順風満帆に成長して行った織田信忠でしたが、1582年、明智光秀の本能寺の変となります。
この時、備中・高松城攻めに参じるべく、織田信長は本能寺で宿泊していましたが、織田信忠は京都・妙覚寺にいました。

明智勢によって、本能寺が襲撃されたと、急な知らせが届くと、織田信忠は本能寺へ向かいします。
しかし、その途中で、織田信長自害の知らせが届き、側近の斎藤利治、京都所司代・村井貞勝、津田源三郎(織田信房)らと共に、籠城するため、誠仁親王の住まいである二条新御所に入りました。
逃げようと思えば、逃げれたはずですが、潔く明智光秀に対する決断をしたと言う事になります。
誠仁親王を脱出させると、福富秀勝・菅屋長頼・猪子兵助・団忠正・下方弥三郎ら僅かな手勢とに篭城し奮戦しました。
しかし、明智勢の伊勢貞興らの攻撃を受け、鎌田新介の介錯にて織田信忠は自刃しています。享年26。
このとき、二条御所の縁の板を剥がして、自らの遺骸を隠すように命じたとされており、父・織田信長同様に、織田信忠の遺骸も明智勢は発見できませんでした。


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岐阜・崇福寺には、父・織田信長と共に「織田信長父子廟」として、織田信忠も供養されており、有料拝観できます。

なお、少なくとも尾張と美濃と2ヶ国も収めた織田信忠ですが、銅像がひとつも無いのは、ちょっと、かわいそうに感じる次第です。

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