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梶原御霊神社とは
梶原御霊神社は、神奈川県鎌倉市梶原にある神社です。
御祭神は、鎌倉権五郎景正で、本殿の中には、梶原景正夫妻像、梶原景時の像、三猿像が安置されていると言います。
もともと、神社は、化粧坂の上にある葛原ヶ岡/葛原岡(源氏山)にあったと言い、梶原御霊神社は、1190年、梶原景時の創建となっています。
そもそも、梶原氏は、鎌倉党(鎌倉氏)が出身でして、鎌倉景政(鎌倉景正)は、源義家に鎌倉・大蔵谷の城館を献上。
その後、鎌倉景正の屋敷は、藤沢の村岡郷もしくは、鎌倉の由比ガ浜に移ったとされます。
その鎌倉景正(鎌倉景政)の弟に鎌倉景通がいて、その嫡男・梶原景久が、ココ、相模国鎌倉郡梶原に住み梶原氏を称しました。
梶原景時の母は、横山党・横山孝兼の娘になります。
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他にも鎌倉党としては、三浦郡長江の長江氏、板倉重家の板倉氏、安積氏、俣野景久の只野氏(多田野氏)、高座郡香川郷の香川氏、古屋氏(降矢氏)、大庭景親など大庭御厨の大庭氏、鎌倉郡長尾郷の長尾氏、鎌倉郡金井の金井氏などがいます。
このように、源頼朝が鎌倉に幕府を開く前は、鎌倉一族が治めていた場所でした。
そして、鎌倉幕府が成立すると、源氏山にあった神社を、本拠地の梶原郷に移転したものとも考えられます。
もとをただせば、鎌倉氏も平良文の後裔とされますので、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏も、同族と言えます。
しかし、梶原御霊神社の現在は、ほとんど人が訪れることもないような、とても、ひっそりとした場所です。
まだ、梶原景時が存命している1186年、源頼朝の妾・大進局が、亀王丸(貞暁)を産みます。
このとき、亀王丸が産まれた、深沢にあったと言う、長門景遠(長門江七景遠)の屋敷も、この深沢(梶原)の近くだったのでしょうか?
境内には、梶原一族の墓とされる石碑類もあります。
梶原景時と言う武将は、好きな部類なのですが、正直に申し上げまして、長い時間、滞在したいとは、思えない場所でした。
ともあれ、丁重にお参りさせて頂きました。
ひとめで、かなり古い(戦国時代より前)とわかる、墓石もありました。
ただ、鎌倉時代と言うよりは、南北朝時代のものもあるようですので、鎌倉時代のあと、続いた梶原氏のものかも知れません。
どうして、鎌倉の市街地の史跡ばかり注目されてしまいますので、もう少し、周辺も調査が進むと良いなと感じる次第です。
源氏山に近いほうには、御堂屋敷、みず屋敷と言った古い言い伝えも残ります。
梶原景時は、鎌倉幕府の鎌倉屋敷として、鎌倉の十二所にも屋敷を構えました。
こちら、梶原には、本拠地の屋敷があったことでしょう。
すぐ隣にある、深沢小学校辺りが、屋敷跡のように思えてなりません。
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なお、深沢小学校の裏手に「やぐら」があり、梶原景時と一族の供養塔(五輪塔)があると言います。
ただし、深沢小学校の敷地内の為、お参りには、学校の許可が必要との事。
日曜と言う事もあり、断念致しました。
ちなみに、梶原景時が追放された際には、寒川の一宮館(梶原景時館)から、静岡方面へ逃れて行ったとされています。
まぁ、あちこち、所領があったと言う事になり、鎌倉の梶原氏は滅亡しましたが、一族は各地に残っています。
もうひとつ、ちなみに、鎌倉氏の子孫と思われる大谷公嘉が、戦国時代の御幣山城主で、北条氏康に仕えていました。
一時、武田信玄の軍勢に奪われており、最低2年間、御幣山城がある藤沢は、武田領だった可能性もあります。
交通アクセス
湘南モノレールの湘南深沢駅から、歩いて徒歩約10分です。
小学校の東側から山の麓へ入る感じです。
少し場所が、わかりにくいので、当方のオリジナル地図にてよくご確認の上、お出かけ頂けますと幸いです。
駐車場はありません。
トイレなどは近くの「そうてつローゼン」さん利用になりますので、買い物がてらどうぞ。
すぐ北側にある洲崎古戦場は、鎌倉幕府滅亡時に、赤橋守時が、新田義貞の軍勢と激戦を演じたところです。
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