鎌倉・勝長寿院の解説(大御堂)~鎌倉3大寺社のひとつ

勝長寿院

勝長寿院とは

勝長寿院(しょうちょうじゅいん)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にあった寺院跡です。
鎌倉時代には、鶴岡八幡宮(八幡宮寺)、鎌倉・永福寺と共に、鎌倉での3大寺社のひとつと言う規模を誇りました。
別名は、大御堂(おおみどう)、南御堂(みなみのみどう)とも言います。

勝長寿院

平家討伐も先が見えてきたころの1184年、源頼朝は、父・源義朝の菩提を弔うため、大御堂ヶ谷の地に寺院の建立計画を開始しました。
奉行は、中原広元と藤原俊兼であり、1185年2月19日から、本格的な工事を開始しています。
勝長寿院の造営に際しては、源頼朝だけでなく、公卿・一条能保なども下見を行ました。


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並行して、後白河天皇に依頼し、源義朝の首を探してもらうと、近臣だった鎌田政清の首と共に、勅使・大江公朝(後白河院の北面武士)が鎌倉に届けました。
文覚の弟子が、遺骨を運搬してきたとされます。
<注釈> 討ち取られた尾張・野間大坊に源義朝の墓がある。

勝長寿院

1185年8月30日、源頼朝が片瀬・本蓮寺まで出向いて受け取り、9月3日、源義朝の遺骨と、鎌田政清の首(鎌田正清・鎌田正家・鎌田政家)は、南御堂に埋葬されました。
源頼朝、平賀義信とその子・平賀惟義、源頼隆ら、源義朝に関係した源氏一門が立ち会っています。

源義朝の墓、鎌田政清の墓

その後、堂舎が完成し、10月24日、盛大に落慶供養が執り行われました。
一条能保と、その妻・徳大寺公能の娘も参列しています。
京の出身の官吏としては、大江広元と藤原邦通の2人だけが、許されています。


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このように、勝長寿院は、源氏の菩提寺に近い格式ある寺院と言えます。

1186年5月27日、病気回復祈願のため、勝長寿院に参籠していた、大姫(源頼朝の娘)に対し、源義経の愛妾・静御前が、舞を披露したとあります。

1190年7月15日、源頼朝は、勝長寿院にて、滅亡した平家の菩提を弔うために万灯会を行いました。
京で源頼朝打倒の旗を挙げた、源義経の謀反の知らせが届いたのも、源頼朝や御家人らが、勝長寿院にて、源義朝の菩提法要を執り行っていた最中でした。


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1192年5月8日、源頼朝は後白河法皇の49日法要を勝長寿院で行いました。
参列した僧は、鶴岡八幡宮20名、勝長寿院13名、伊豆山権現(伊豆山神社)18名、箱根権現(箱根神社)18名、大山寺3名、金目観音3名、高麗寺3名、六所神社3名、岩殿寺2名、杉本寺1名、窟不動1名、慈光寺10名、浅草寺3名、真慈悲寺3名、飯泉観音2名、国分寺3名。

1194年10月25日、鎌田政長の娘の主催にて、法要が営まれました。
鎌田政清(鎌田政長)に男子がなかったため、源頼朝はこの娘に、尾張国志濃畿と丹波国田名部の地頭職を与えています。


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1197年、北条政子の長女・大姫が亡くなった際、どこに葬られたかは不明ですが、この勝長寿院だった可能性もあるでしょう。
<注釈> 大姫の墓(供養碑)とされるものは、大船・常楽寺の裏山にあるが、寺は北条政子死後の創建なので後年の設置の可能性も?

1213年、和田合戦の頃の勝長寿院の別当は、定豪と言う僧侶のようです。
定豪(じょうごう) は、父が源延俊と言う源氏の子で、1228年には、奈良・東大寺の別当になっています。

1219年、3代将軍・源実朝が、公暁(源頼家の次男)に暗殺されると、勝長寿院に葬られ、母・北条政子によって法華堂(五仏堂)が建てられたとあります。
運慶によって彫られた五大尊像(五大明王)が安置されたと言います。
なお、源実朝の首塚は、神奈川県秦野市にあります。
この逸話としては、勝長寿院に葬られた際に、首が見つからなかったともされ、代わりに髪(宮内公氏に与えたという一筋の髪の毛)を入棺したともあります。
また、愚管抄によると、首は岡山の雪の中で発見されたとありますが、吾妻鏡では、源実朝の首は所在不明になっています。
なお、公暁は実朝の首を持って逃走していることから、公暁の家来・武常晴が、秦野の波多野氏に協力してもらい、源実朝の首を葬ったともされます。
更に、源実朝は分骨され、高野山の金剛三昧院に送られ、源頼朝の庶子で、源実朝の異母兄・貞暁が供養しました。(前年に、北条政子は貞暁に会っている。)

話を戻しますが、尼将軍となった北条政子は、1223年(貞応2年)に勝長寿院奥に弥勒菩薩を本尊とする新御堂(奥御堂)と御所(勝長寿院奥殿)を建立し、余生を送っています。


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晩年、北条政子は、勝長寿院にて過ごし、1225年に亡くなりました。
戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。
亡くなった翌日に、勝長寿院の御堂御所の地で火葬されたようです。
その新御堂(持仏堂)が、北条政子の死後、最初の墓所「法華堂」(北条政子の法華堂)となったようですが、もちろん、現存していません。

現在、鎌倉にて、源実朝の墓とされるものは、寿福寺やぐらの内に、石層塔があり、北条政子の墓も、同じく寿福寺にありますので、後年、移されたのかな?と言う印象を受けます。

1256年12月、源頼朝の法華堂も焼け落ちた火災のとき、勝長寿院の伽藍も焼失。
1258年、北条時頼によって大門、御所、楽屋、本堂、弥勒堂、三重塔などが再建されましたが、1295年11月、再び焼失。
同じく焼失していた建長寺とともに、再建費用を集めるため、1325年、元との交易を行う寺社造営料唐船(建長寺船)が出航しています。


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1333年5月、新田義貞の攻撃で鎌倉幕府が滅亡すると、新田義貞は勝長寿院に在陣したようです。
その後、鎌倉には足利尊氏が派遣した鎌倉公方が入ります。

1335年、北条高時の遺児・北条時行が、井出の沢の戦いなど次々に勝利して、鎌倉を奪還します。(中先代の乱)
鎌倉にいた足利直義は、後醍醐天皇の皇子・護良親王を、淵辺義博に命じて殺害させ、京方面へ逃れました。
足利尊氏が軍勢を出すと、次第に北条時行の軍勢を勢いを失い、相模・辻堂で敗れます。
そして、諏訪頼重ら43名は、勝長寿院で自刃して果てました。

引き続き、勝長寿院は存続していましたが、1455年、足利成氏は、鎌倉から出陣すると、武蔵・分倍河原の戦いにて、上杉憲秋、扇谷・上杉顕房を戦死させ、下総・古河御所に移って古河公方になります。
この時、勝長寿院の僧侶・成潤は、足利成氏の兄だったようで、弟・足利成氏に味方せず、山内・上杉房顕と結んで、別当を兼ねていた日光山へ出奔しました。
そのため、勝長寿院は荒廃し、廃寺となったようです。
明治時代頃までは、水田が広がっていたと言いますが、現在は宅地化されており、遺構などはわかりません。
現在、勝長寿院跡には、勝長寿院旧蹟の石碑と、供養塔があるのみとなっています。

鎌倉・勝長寿院

なお、源義朝の供養塔と、鎌田政清の供養塔は、北条氏執権邸宅跡の宝戒寺に移されていたのを、明治30年頃、勝長寿院旧蹟の石碑を建てた際に、この地に移転させたようです。
訪問した際、源義朝の供養塔と、鎌田政清の供養塔は、木々の陰に埋もれている感じでして、気をつけないと、わからない状態でした。
結構、鎌倉は、寺院が残っているほうだと存じますが、廃寺になっている鎌倉・永福寺と言い、重要な寺院は、規模が大きく、お金もかなり必要なため、再建されることがなかったのかな?と感じております。
それを考えると、鶴岡八幡宮が残っているのは、やはり、時代、時代で再建されてきたからでして、すごい事なのだと改めて実感致しました。

交通アクセス

場所がちょっとわかりにくいので、当方のオリジナル関東地図の中から「勝長寿院」と検索してみて頂ければ幸いです。
勝長寿院の石碑がある場所を、ポイントしております。


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鶴岡八幡宮から歩くと、約1km、徒歩15分くらいです。
大御堂橋近くに、文覚上人屋敷跡の石碑もありますので、セットでどうぞ。

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