若宮氏館跡(米原市)

若宮氏館跡(米原市)

若宮氏館跡・山内一豊の妻「千代」の生誕地(米原市)

【若宮家屋敷】
所在地:米原市飯(いい)
別名:「若宮氏館跡」
京極氏(後に浅井氏)の重臣「若宮氏」の居城とされ、
館の堀跡と見られる「水路」のみが現存しています。
若宮氏については、佐々木南北諸氏帳や、
高知県大脇文書等に記載されています。
昔から「若宮仲間」があり、
遺領の土地や位牌を守り毎年法要を行っています。
戦国武将で有名な山内一豊の夫人「千代」は
当若宮氏の出とされています。
この地は戦国時代の動乱期に
夫である「山内一豊」を内助の功で支えた妻「千代」生誕の地。
北陸本線の線路沿いで「若宮公園」として整備されています。

<交通アクセス>
【電車】
JR西日本・北陸本線「坂田」駅から徒歩10分
「米原」駅からレンタサイクル
「米原駅サイクルステーション」

<米原駅サイクルステーション>
所在地:〒521-0012 滋賀県米原市米原475
JR米原駅東口1F
米原駅東西自由通路東口コミュニティホール内
JR米原駅直結!でシャワー室完備、
県内のサイクリング情報も充実しています。
【車】
米原ICから約15分
【駐車場】
坂田駅無料駐車場利用
<坂田駅無料駐車場>
駅の西側・西側にあります。
線路を横断する高架下(世継宇賀野線)に30台分ほどあります。
「若宮氏館跡」も線路の西側になります。

<問い合わせ先>
米原市歴史文化財保護課
電話:0749-55-4552
FAX:0749-55ー4556

山内一豊の妻・千代

山内一豊の妻の千代は、
若宮喜助友興(わかみやきすけともおき)の子として、
弘治3年(1557年)にこの地で生まれと言われています。
永禄9年(1566年)に父友興が戦死し、
叔母の夫の不破氏に養われていましたが、
その後再び飯村に戻りました。
この頃、隣村(宇賀野村)の長野家に身を寄せていた山内一豊母子と出合い、
一豊の妻になったされます。
見性院(けんしょういん)と称しますが、
本名は千代とまつの2通りがあります。

<まつ>
「まつ」の名は、討ち死にした若宮友興の娘
「おまつ御両人」に宛てた浅井長政の安堵状が存在することによります。
このまつは一豊ではなく山内氏家臣の五藤為重に嫁いだとされています。
けれども、結婚後千代と名を改めた可能性もあります。
若宮館跡には「まつ」のことも説明看板があり、
そこには山内氏家臣の五藤為重に嫁いだ(再婚)と記してあります。

<千代>
「千代」の名は、
新井白石が『藩翰譜』に記したエピソード中に出てきますが、
こちらは一豊の養子となった山内忠義の実母の名と
混同ともいわれ定かではありません。
他にも、忠義の父で一豊の弟である康豊の後妻妙玖院が、
千代であったとする説もあります。

<一人娘>
一豊との間には一人娘の与祢が生まれましたが、
長浜地震(天正地震)により夭折しています。
其の後は夫妻は子供には恵まれず、
捨て子を拾って育てています。
この子がのちに妙心寺で修業を積んだ湘南宗化です。
世継ぎにすることも考えていましたが、
捨て子ということが知れ渡っていたため、
家臣の忠誠を保てないと言う進言から、
10歳で京都の妙心寺に入れられたとのことです。
一豊は弟康豊の子・忠義(幼名・国松)を土佐山内家跡目養子にしていました。

<晩年>
一豊の死去後は湘南宗化のいる京都の妙心寺近くに移り住み、
湘南宗化と再会を果たします。
1000石の隠居料を得て、そこで余生を過ごしていました。
元和3年(1617年)、山城国(京都)で死去し、享年61。
奇しくも夫・一豊の享年と同じ年齢でした。
宗化がその最期を看取ったと伝わっています。

フィードバックする

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。