十三人の合議制 (13人の合議制)わかりやすく解説~鎌倉幕府将軍はどうなったの?

十三人の合議制

十三人の合議制とは

十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)は、鎌倉時代の1199年1月に鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の死去し、2代将軍・源頼家が18歳の若さで鎌倉殿となった4ヶ月後の発足した、鎌倉幕府の集団指導体制です。
できる限り、分かりやすく、解説してみたいと存じますが、13名のメンバーで構成された最高決議機関となり、1199年4月に発足されました。
源頼家が鎌倉幕府のトップである鎌倉殿になると(まだ正式に朝廷から征夷大将軍にはなっていない段階)、当初は大江広元中原親能梶原景時らの補佐を受けて政務を行いました。
しかし、突然、鎌倉殿の権利だった訴訟を直接に裁断する権限を剥奪し、有力者13人による合議にて決定されることになったのが、十三人の合議制 (13人の合議制)です。

大倉御所(大蔵御所)

背景には、亡き源頼朝の側近だった大江広元・中原親能・梶原景時らが、引き続き主導することに不満を持っていた有力御家人が、自分たちの意見も反映させたいなどの理由から、会議による決定を行う事に変更したものと考えられます。
ただし、議会のように毎回、裁定を行う際に13人全員が集まると言う事ではなかったようです。
13人のうち、その問題に関係する数名で話し合いが行われ、その都度、問題解決に当たりました。
実際問題、13人のひとり梶原景時は、就任して8ヶ月後には失脚することになります。


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なお、会議で決定した事項は、最終的には将軍である源頼家が判断・承認すると言う手続きになりました。
しかし、源頼家も、13人の合議制での決定事項にはあまり逆らっていない事から、事実上の傀儡になったと言えるでしょう。
十三人の合議制に選ばれた御家人は下記の通りです。

十三人の合議制メンバー

十三人の合議制に加わった鎌倉幕府の有力御家人は、下記の通りです。

大江広元

大江広元は、朝廷で仕えた下級貴族(文官)で儒学を研究する家柄でした。
兄とされる中原親能が先に源頼朝に仕えたため、呼ばれたものと推測します。
源頼朝から能力を認められ、公文所別当から鎌倉幕府の初代・政所別当となり幕府創設に大きく貢献しました。

三善康信

問注所執事である三善康信は、京にいた下級貴族で、太政官の書記官を務めていた家柄でした。
坂東武者ばかりの鎌倉幕府に置いて、朝廷の儀式などにも詳しく、事務処理に優れた人材として抜擢されたと言えます。
ただし、突然、白羽の矢がたったわけではなく、三善康信の母が源頼朝の乳母の妹だった縁で、源頼朝の挙兵前から京都の情勢などを伝えていました。
鎌倉幕府が設けられると、三善康信は問注所執事として、裁判の事務関連を担当していました。


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中原親能

中原氏は儒学を研究しており、朝廷にて多くの実務官僚を輩出していた。
中原親能は、源頼朝が挙兵すると早くから側近となっており、源義経の軍勢と共に上洛すると、公家・朝廷と幕府の交渉人として活躍。
政所公事奉行人、京都守護となっており、京と鎌倉を何度も行き来している。

二階堂行政

もともと朝廷に仕えており、実務に長けた官僚で、工藤氏の一族。
公文所寄人、政所家令 → 政所執事

梶原景時

石橋山の戦いでは敵方だったが、隠れていた源頼朝を見逃す功績あり。
侍所所司 → 侍所別当。
播磨守護・美作守護
1199年12月に失脚。梶原景時の変


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足立遠元

文武両道な武蔵の御家人。
釜ら幕府に公文所が設置され大江広元が別当になると、足立遠元・中原親能・二階堂行政・中原秋家・藤原邦通らが寄人(よりゅうど)に任じられたが、足立遠元は武士でありながら文官的な公文所寄人となった。

安達盛長(藤九郎盛長)

源頼朝の流人時代からの側近で、妻は丹後内侍
晩年、三河国守護になったが、有力御家人の中では珍しく官位は与えられていない。
1200年に病死。

八田知家

姉妹の寒河尼は源頼朝の乳母を務めた。
1193年、曽我兄弟の仇討ちをきっかけにして、常陸の多気義幹の謀反を訴え、失脚させると常陸・小田城を築いて常陸守護となる。

比企能員

源頼朝の乳母を務めた比企尼の養子。
比企能員の娘・若狭局は、源頼家に嫁して、源一幡を生んだことで権力を強めた。
信濃守護・上野守護。
1203年、北条時政により誅殺(比企能員の変)


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北条時政

源頼朝の流人時代から大きく支えた功労者で、後妻は牧の方。
娘の北条政子は、源頼朝の正室になっている。
伊豆守護・駿河守護・遠江守護と権力を強めた。
1205年、北条政子と北条義時によって伊豆に追放(牧氏事件)

北条義時

北条時政の嫡子であり、若い頃は、源頼朝の側近として、寝所警護衆(家子)を務めた。
1205年には、父・北条時政を鎌倉から追放し、北条政子と共に鎌倉幕府の執権政治を確立して行く。

三浦義澄

早期から源頼朝に味方した相模の有力御家人である三浦一族の宗家扱いで相模守護。
1200年に病死

和田義盛

本来であれば三浦一族の長である有力者で、侍所別当。
1213年、和田合戦の際に、三浦義村に裏切られて滅亡した。


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なお、対抗して源頼家が近習とした狼藉不問の特権を持つ5人は、小笠原長経比企宗朝比企時員(比企宗員)、中野能成の4名が吾妻鏡に記載されている。

<注釈> 吾妻鏡ではもう1名が記載されておらず不明だが、北条時連(北条時房)だと考えられる。

解散時期

1999年4月頃にスタートした「十三人の合議制」は、長く続くことはなかった。
前述のとおり、1999年12月には、梶原景時が失脚して、1200年1月に殺害されている。
そして、1200年には、安達盛長と三浦義澄が病死したことで、合議制は事実上、崩壊している。
その後、北条時政が権力を強めており、源氏一門以外の御家人として初めて守としての国司(遠江守護)となった。
しかし、将軍・源頼家は、子の一幡の母方である比企能員を頼りにしており北条氏と比企氏は対立。
1203年には、比企能員も滅ぼされる。(比企能員の変)
その後、源頼家は伊豆・修禅寺に追放され、1204年には殺害された。
そして、12歳の源実朝が鎌倉幕府3代将軍になると、大江広元と並んで北条義時が政所別当に就任。
1205年、北条時政は伊豆に追放され、北条義時と北条政子が、鎌倉幕府の執権政治を確立して行った。
更に、1213年、和田合戦にて和田義盛を滅ぼすと、北条義時は侍所別当も兼任し、鎌倉幕府の重要職を独占して北条氏の地位が定まった。

和田合戦

1219年、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が、公暁に襲撃され殺害されると、以後、将軍は、朝廷(天皇家)ゆかりの人物が鎌倉に派遣されることになり、より一層、北条義時が主導する政治になった。

評定衆へ

1224年、北条義時が死去し、北条泰時が第3代執権になると、1225年には、北条政子も亡くなりますが、北条泰時は、古い体制である十三人の合議制を完全に終わらせ、新たに制度化した評定衆を発足しています。
評定衆の初期メンバー(初代評定衆)は下記のとおりです。

中原師員、中条家長、二階堂行村、町野康俊(三善康俊)、斎藤長定(斎藤浄円)、三浦義村、佐藤業時、矢野倫重(三善倫重)、後藤基綱、二階堂行盛、太田康連(三善康連)。


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初代・問注所執事を務めた三善康信の子らが3名も含まれているなど、武士中心と言うよりは、実務や法律面を強化しようと官僚(文官)が多くなっていることが伺えます。
北条泰時は、この評定衆のメンバーを政所に出仕させ、鎌倉幕府の最高機関として、政策、人事の決定、訴訟の採決、法令の制定などを行いました。
執権・北条泰時は、この評定衆を、まとめる責任者と言うことになります。
なお、六波羅探題の責任者だった叔父・北条時房を鎌倉に呼び戻すと、執権に据え、執権は「両執権」(2名)となりました。
この執権二人制は、2位の者(ナンバー2)は「連署」(れんしょ)と呼ばれるようになり、実質的な副執権と執権を補佐しました。
また、執権・北条氏の宗家である「得宗家」の執事を務め、得宗被官である御内人の筆頭になる者を、やがて内管領(うちのかんれい)と呼ぶようになりました。


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鎌倉時代末期には、内管領である長崎円喜長崎高資が、北条得宗家の執権・連署以上に、絶大な権力をふるっており幕府滅亡の要因にもなっています。

2022年、NHK大河ドラマでは、三谷幸喜さん脚本の「鎌倉殿の13人」と言うタイトルで、放送される予定です。

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