伊豆【源頼家の墓】修善寺温泉にある鎌倉幕府2代将軍の墓所

源頼家の墓

源頼家の墓

伊豆修善寺にある源頼家の墓(みなもとよりいえのはか)は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の墓になります。

源頼家の墓

源頼家(みなもと の よりいえ)は、1199年1月13日、源頼朝が急死し、18歳で家督を継ぎます。
しかし、北条時政ら有力御家人は「十三人の合議制」を敷いて、政治と裁判の主導権を握り、まだ若かった源頼家は、お飾りのような武家の棟梁となってしまいました。
尚且つ、将軍の権力のもと、発言力を高めたい有力御家人の争いもあり、弟・源実朝を立てようとする、北条時政の動きもあったようです。
そのためか、母・北条政子の妹と考えられる阿波局の策略なのか?、父・源頼朝の代から、重用されていた、味方の梶原景時に対して、御家人66名による連判状が提出されました。
この時、源頼家は梶原景時を助けてあげることが出来ず、1200年1月20日、梶原景時は追放となり、京へ向かう途中、襲撃を受けて殺害されています。(梶原景時の変)


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それから、約2年半後の1202年7月22日、源頼家は、ようやく征夷大将軍に任じられましたが、1203年5月、源頼家の弟・源実朝の乳母を務めていた、阿波局(北条政子の妹)の夫である阿野全成を、謀反の疑いで殺害しました。
更に、阿波局も逮捕しようとしますが、母・北条政子が引き渡しを拒否し、源頼家は北条氏と対立する構図が明確になっています。
この頃、毒を飲まされていたのか?、源頼家は体調不良となっており、8月末には危篤状態に陥りました。

こうして、次期将軍は誰に?と言う様相となり、北条政子・北条義時らは、源実朝を擁立しようと考えます。
そして、源頼家の嫡男・一幡を産んでいた若狭局の実家である比企能員を罠にはめ、北条時政らは比企一族を滅亡させました。(比企能員の変

源頼家の病気は回復しましたが、寝込んでいる間に、最後の後ろ盾も失い、既に命に従う者はおらず、9月7日に鎌倉殿の地位を追われます。
源頼家は、修禅寺に幽閉となり、11月頃、嫡男・源一幡は捕らえられて、北条義時の手勢にて殺害されていました。

そして、源頼家も1204年7月18日、修善寺温泉の筥湯で入浴していたところ、北条家の家来・金窪行親に襲撃されて、殺害されました。享年23。

修善寺温泉の筥湯

現在の供養塔は、源頼家の500周忌である江戸時代中期の1704年に、修善寺の住職・筏山和尚(ばっさんちせん) が建てたものになります。

源頼家の墓

交通アクセス

源頼家の墓がある場所ですが、ちょっと、分かりにくいです。
修善寺温泉の南側の山麓(中腹のしたあたり)にあります。
クルマが通行できる道路はなく、歩行者専用の道や階段が、住宅・旅館の脇から何本かあり、適当に入って、登って行くと、たどり着けます。
クルマの車道から、細い路地を入って、徒歩2分といったところです。
一番の近道は「山口遊技場」の右から舗装されている細い道を入り、階段が見えたら登ると、十三士の墓に出ます。
その隣の敷地に、源頼家の墓があります。
当方のオリジナル観光地図でも、場所をポイントしてありますので、ご確認頂けますと幸いです。
駐車場は、修善寺温泉街にある有料P利用となります。


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更に、源頼家の墓の向こう側には、北条政子が源頼家を供養するために建てた「指月殿」(しげつでん)という御堂もありますので、セットでどうぞ。

修善寺には、別の場所に「源範頼の墓」もあります。
この源範頼(みなもと の のりより)は、源頼朝の弟、源義経の兄であり、父の兄弟となる武将になります。

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