伊庭城跡

伊庭城跡

伊庭城について・伊庭氏の後裔は住友財閥総領事

【伊庭城(いばじょう)】
所在地:〒521-1235滋賀県東近江市伊庭町2011−1

築城は定かではありませんが、
伊庭城は建久年間(1190~1199年)に
近江源氏佐々木氏の支流で佐々木経方の子、
行実の四男実高が築いたといわれています。

<伊庭氏本家>
実高は、はじめて近江国神崎郡伊庭邑に居住し、
伊庭氏を称しました。
本家からは近江守護六角氏の重臣で
守護代を務めた伊庭満隆や伊庭貞隆などがいます。

<伊庭貞隆と佐々木六角氏>
伊庭貞隆(いば さだたか)は
近江国神崎郡伊庭の領主です。
貞隆の父である満隆の代から、
六角氏が当主争いで明け暮れている間も、
守護代として国政に関与し力をつけていったのでした。
それが疎ましくなり、当時の六角氏の当主・六角政堯が
満隆の嫡男を殺害してしまいました。
やがて六角政堯室町幕府から廃嫡され
六角高頼が当主となったのでした。
満隆の子である貞隆は守護代として高頼をよく補佐していました。

<貞隆の排除を決行>
国人衆のリーダー格として共に国人衆をまとめていた山内政綱が
第二次六角征伐で戦死した後は貞隆に権力が集中し、
高頼にさえ匹敵する権勢を有する程になっていました。
そんな貞隆を危険視した高頼が
そのことを疎ましいと考えていた佐々木六角高頼は、
文亀元年(1502年)に伊庭貞隆を排除しようと立ち上がります。
六角軍に敗れ湖西に逃れた貞隆でしたが、
管領・細川氏の援助を受けて反撃に転じます。
翌年6月には細川政元が仲介に入る形で高頼と貞隆は和睦しました。
が、永正4年(1507年)、永正の錯乱で管領・細川政元が暗殺され、
後ろ楯を失った11代将軍・足利義澄が近江朽木谷の高頼を頼ってくると、
高頼は将軍家との関係改善のため一端は保護しますが、
前将軍・足利義尹(義材)が大内義興や細川高国らの支援で
将軍に復帰すると義材側につきます。
義澄は貞隆の保護を受けますが、
このことで高頼と貞隆の対立が再燃します。

<伊庭氏没落へ>
永正8年(1511年)8月14日、
義澄が死去すると翌月には貞隆の家臣である
岡山城主・九里信隆が高頼に討たれます。
貞隆は湖北へ出奔し浅井亮政(浅井長政の祖父)の支援を受けつつ、
永正11年(1514年)2月、高頼との抗争を繰り広げます。
一端は六角氏へ帰属しますが六角氏の圧迫から、
永正13年(1516年)、
高頼の嫡男・六角氏綱に反乱を起こすなど、
浅井氏の支援を得て幾度も六角氏に反旗を翻しますが、
永正17年(1520年)8月、
岡山城が陥落して貞隆父子は没落します。

その後の伊庭城は、
元禄11年(1697年)旗本である三枝氏が領主となって
陣屋が築かれ明治維新に至ります。

<伊庭氏の後裔は住友財閥の第2代総領事>
また別の流れでは実高の後14代を経た貞勝は、
蒲生郡桐原郷に身をよせ、
後中小森で慶長12年(1607年)に没しました。
貞勝の子の貞家は渡辺吉綱に仕え、
伊庭氏は代官として近江における和泉伯太藩の飛び地
(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を代々支配するようになりました。
以降、実高が伊庭氏を名乗ってから25代の後裔にあたる貞剛は、
1879年(明治12年)、裁判官から住友本社に入社、
1900年(明治33年)に第2代総理事となり
住友財閥の基礎を築きました。
伊庭氏歴代の墓は近江八幡市にあります。

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