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富士の巻狩りとは
富士の巻狩り(ふじのまきがり)は、鎌倉時代の建久4年(1193年)5月15日から6月7日まで、富士野に滞在して、源頼朝ら鎌倉幕府の御家人の多くの参加した、壮大な巻狩りのことです。
1193年3月、後白河法皇の喪が明けると、鎌倉幕府は下野国・那須野、信濃国・三原野、駿河国・富士野にて大規模な「巻狩り」を計画しました。
巻狩り(まきがり)は、シカやイノシシなどが生息する狩場(原野)を大勢の勢子せこや追出犬によって取り囲み、徐々に獲物を巻き込んで弓で射取る狩猟のこを言います。
馬上から騎射するため武士にとっては実戦に近、武芸としての軍事訓練にもなりました。
夜には必ず宴会なども行うため、武士らのいきぬきとも言えます。
また、農作物を荒らす害獣を駆除すると言う側面もあり、農民にも喜ばれていたようです。
今で言うと、会社でのゴルフ大会のようなものでしょうか?
吾妻鏡にて見られる参加者は下記のとおりです。
源頼朝、源頼家、北条時政、北条義時、足利義兼、山名義範、小山朝政、小山宗政、小山朝光、里見義成、佐貫広綱、畠山重忠、三浦義澄、三浦義村、佐原義連、千葉成胤、稲毛重成、和田義盛、工藤祐経、工藤景光、工藤行光、土屋義清、梶原景時、梶原景季、梶原景高、梶原景茂、梶原朝景、梶原景定、糟屋有季、土岐光衡、宍戸家政、波多野義景、愛甲季隆、海野幸氏、藤沢清親、望月重隆、小野寺道綱、市河行房、禰津宗直、佐々木盛綱、佐々木義清、渋谷重国、小笠原長清、武田信光、狩野宗茂、大友能直、御所五郎丸、曾我祐信、曾我祐成、曾我時致、平子有長、吉川友兼、仁田忠常、毛呂季光、加藤光員、長沼宗政、宇都宮頼綱、結城朝光、王藤内、下河辺行平、榛谷重朝、土屋義清、岡部好澄、河村義秀、沼田太郎、中野助光、岡辺弥三郎、岡部清益、堀藤太、臼杵八郎、宇田五郎、大見小平次、新開実重、伊東祐時。
そして、1193年5月28日の夜、雷雨の中、曾我十郎祐成と曽我五郎時致の曽我兄弟が、父親の仇である工藤祐経を討つと言う「曾我兄弟の仇討ち」が起こりました。
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曽我兄弟(曾我兄弟)が仇討ち(あだうち)を行った、静岡県富士宮市・富士市には、関連の史跡が点在しています。
そんな曽我兄弟の仇討ちの各史跡を、時系列にてご紹介してみたいと存じます。
各史跡の場所は、当方のオリジナル関東地図にてポイントしておりますので、位置関係など、ご確認頂けます。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
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まずは、世界遺産にもなっている、白糸の滝周辺の史跡からです。
井出の代官屋敷(旧井出館跡)
井出の代官屋敷がある場所は、1193年5月、富士の巻狩りの際に、源頼朝が宿泊した井出氏の館「井出館」があった場所とされます。
源頼朝らは、藍沢の狩(御殿場付近?)を終えて、富士野へ移動してきました。
吾妻鏡では「藍沢御狩事終、入富士御旅館」と、屋敷の事を旅館と表現しています。
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実際に、江戸時代の宝暦年間(1751年~1764年)には「富士野旅館」があったそうですが、焼失したようです。
現在残っている屋敷は、江戸時代中期に建てられた、長屋門・母屋ですので、鎌倉時代のものとは異なりますが、立派な建物が現存しております。
井出屋敷の手前には、国の指定特別天然記念物「狩宿の下馬ザクラ」があり、源頼朝が桜の枝に馬を繋いだと言う伝説があります。
樹齢は約800年、開花時期は4月中旬になります。
富士の巻き狩りの名残を、今に伝えている、貴重な桜の木で、日本五大桜の1つに数えられます。
なお、井出の代官屋敷は、お住いの方がいる民家ですので、建物の敷地へ進入すると不法侵入にあたります。
表側から外観を見学するのみで、内部は非公開となっています。
桜の木近くに、未舗装の駐車場があります。
音止の滝
源頼朝が富士の巻狩りを行うと知り、工藤祐経を討つチャンスと、曾我祐成・曽我時致の兄弟も富士宮にやってきます。
そして、どうやって、工藤祐経を討つか、密議・相談をしたと言いますが、滝の轟音で話が聞き取れなかったそうです。
そこで、神に念じたところ、たちどころに滝の音が止んだという伝説があるのが、この音止の滝になります。
曾我の隠れ岩
曾我兄弟は、白糸の滝・音止の滝からも近い、下記写真の岩に隠れて、夜になるのを待ったともされます。
近くでは、親の仇である、工藤祐経らが、富士野の神野の御旅館にて、宴席を開いていたようです。
曾我兄弟らは、雨夜の中、傘を燃やして松明がわりにして、移動したとされます。
曾我の隠れ岩がある場所には、駐車場はありません。
白糸の滝の駐車場に止めて、歩いて3分といったところですので、徒歩で訪れたいところです。
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下記の工藤祐経の墓にも、1分で行けますので、セットでどうぞ。
場所などは、上部にて記載している地図で、ご確認頂けますと幸いです。
工藤祐経の墓
富士野の神野の御旅館で酒を飲んでいた工藤祐経が曽我兄弟によって討たれました。
酒の相手をしていた王藤内も命を落としたとあります。
同席していた、手越宿と黄瀬川宿の遊女が悲鳴を上げ、大騒動となり、駆け付けた武将らと乱闘になったようです。
暗闇の中、相手もよく分からなかったようで、平子有長・愛甲季隆・吉川友兼・加藤光員・海野幸氏・岡辺弥三郎・岡部清益・堀藤太・臼杵八郎といった武将らが、傷を負いました。
宇田五郎は死亡し、兄・曾我十郎は、仁田忠常によって切り捨てられました。
道路は狭いですが、工藤祐経の墓の前にある墓地に2台ほどの駐車スペースがあります。
ただし、白糸の滝の駐車場から歩いてきても、数分の距離です。
曽我兄弟の墓
弟・曽我時致は、源頼朝めがけて走ったとされ、大友能直が取り押さえました。
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<注釈> 一説では、北条時致も、源頼朝を襲撃したともある。
そして、弟・曽我時致の身柄は、親類筋になる大見小平次が預かり、和田義盛と梶原景時が検死を行ったとあります。
下記写真は、富士宮にある曽我兄弟の墓の入口です。
富士宮の曽我兄弟の墓は、小高い丘の上にあるように感じになります。
富士宮の曽我兄弟の墓がある場所は、現在、曽我兄弟の墓がありますが、富士の巻狩りの際に、仁田忠常が宿舎としていた場所ともされます。
御家人も多数参加しており、もちろん、家来や随行の下働き人もいますので、あちこちの商家・農家などに、分宿していたのでしょう。
ただし、この富士宮にある曽我兄弟の墓は、後年、供養のために儲けられたものであり、当時のものではありません。
駐車場はありませんので、近くにある曽我八幡宮の駐車場利用となります。
五郎の首洗い井戸
仇討ちの翌日、源頼朝は弟・五郎の尋問を行い、許そうと考えましたが、工藤祐経の子・犬房丸が、泣いて訴えたため、梟首が決定されました。
弟・曾我五郎は、鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡にて、首を刎ねられたとされます。
その鷹ヶ岡が、現在の富士市鷹岡の場所とされ、工藤祐経の子・犬房丸が、五郎を討ち取ったともあります。
そして、五郎の首を、湧水で洗ったのが、この「五郎の首洗い井戸」とされます。
住宅と住宅の間を入り、川の脇にありました。
五郎の首は、曽我城近くに暮らしている、母に届けられたと伝わり、亡骸は近くの福泉寺に葬られたとあります。
また、源頼朝は、五郎の母には、曽我の地を安堵する自筆の安堵状を与えたとされます。
現在、湧き水は、枯れており、石碑のみが建てられています。
道路は駐車禁止で、狭く、駐車場はありません。
姫宮神社
富士市の姫宮神社は、静岡県富士市久沢の旧道・松風通り沿いにあります。
神社と言っても大きな建物ではなく、小さな社が、住宅地の敷地脇にあると言う感じです。
祀られているのは、化粧坂少将です。
化粧坂少将(けわいざかのしょうしょう)は、一見、男性の武将の名前のように感じる方も多いと存じますが、女性の名前です。
実名と言う事ではなく、女房などにつける呼び名のひとつであり、その場所・部署における、大将・中将のつぎ、すなわち、No3の女性、または中将がなく、No2と言う表現でも、用いられることがあります。
相模・大磯の化粧坂(けわいざか)に住んでいる少将、または、手越(てごし)の少将とも言われることがありますが、相模・曽我城にいた弟・曾我五郎が、親しく通っていた女性が、化粧坂少将と言う名称で、歌舞伎などに登場します。
道路も駐車禁止で、駐車場はありません。
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なお、兄・曾我十郎祐成の妾とされる、虎御前は仇討ちすると聞き、富士市内に、虎御前の腰掛石と言う史跡もあります。
更には、事件から3ヶ月程経過したあと、兄弟の霊を慰める旅に出ており、再訪しているようです。
曽我八幡宮(富士宮)
源頼朝は、曾我兄弟の思いに涙し、曽我荘の年貢を免除しています。
また、また曽我兄弟の菩提を弔うよう命じました。
更に1197年、源頼朝の命を受けた畠山重忠は、富士宮を訪れて、地元の武士・渡辺主水に、曾我兄弟を祀る神社の建設を行わせています。
この富士宮上井出にある曽我八幡宮は、兄・曽我十郎祐成が討たれた場所近くともされ、応神天皇のほか、曽我十郎祐成・曽我五郎時致・虎御前が祀られています。
普段、拝観はできませんが、文覚が源頼朝に贈った言う騎馬像や、畠山重忠が丹波法源に掘らせた、曽我兄弟の像と、虎御前の像も、安置されているようです。
神社の左側の空き地が、駐車場になっており、クルマで訪れることができます。
近くの曽我兄弟の墓もセットでどうぞ。
曽我八幡宮(富士市)
富士宮や富士市のあたりには、いくつも、曽我八幡宮がありますが、ここでは富士市の曽我八幡宮をご紹介いたします。
富士市にある曽我八幡宮も、仇討ちから4年後の建久8年(1197年)に建立されたと言います。
建てたのは、岡部郷(藤枝市岡部町)の武将・岡部泰綱(岡部権守泰綱)です。
この岡部氏は、藤原南家・工藤氏である工藤為憲の流れで、乙麿の後裔・入江清綱が「岡辺権守」となって、平安時代末期に地頭として駿河・岡部に赴任していました。
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仇討の際に、常陸から来ていた御家人らは、その場から逃げ出したと言う事で、多気義幹などは所領没収となり、岡部泰綱に預けられていました。
富士市の曽我八幡宮は、主神が応神天皇で、相殿として曽我兄弟が祀られています。
また、境内には曽我兄弟の銅像があります。
なお、岡部氏は、戦国時代、今川義元の重臣などに見られ、岡部元信が有名です。
ここも、駐車場が無いのが、難点です。
曽我寺(福泉寺)
正式には福泉寺と言いますが、通称「曽我寺」として知られています。
境内には、曾我兄弟の墓があることから、江戸時代には東海道を往来する人々が、寄り道をして、お参りしていたそうです。
入口には、曽我兄弟の銅像もありました。
なんでも、鷹ヶ岡で斬られた五郎の墓が近くにあったそうで、その後、増水して十郎の亡骸も流れてきたので、五郎の墓のそばに葬られたとの伝承があります。
しかし、古い福泉寺は、対岸にあったようですが、洪水で流されたため、、曽我兄弟の墓も、現在の場所に移されたとされます。
本堂には兄弟の木像と位牌もあるようです。
曽我兄弟の墓の向かい側には、曽我五郎之末孫・伊東家の墓もありました。
大磯虎御前・化粧坂少将の歌碑もあるそうですが、撮影は失念しました。
山門前に3台ほどの駐車スペースと、公衆トイレがあります。
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ただ、駐車スペースは、お寺訪問と関係ない、地元の皆様も、止めていることがあるようでして、訪問時は、なんとか1台だけ、止められました。
以上、富士の巻狩りにまつわる、富士宮市と富士市の曽我兄弟関連史跡でしたが、もちろん、白糸の滝や、富士・浅間神社なども、見どころです。
また、戦国時代にご興味がある方は、静岡にある「織田信長の墓」をお参りしても良いでしょう。
なお、曽我兄弟の墓に関しては、曾我氏の本拠地である相模・曽我城(曽我氏館)周辺にもございます。
どうして、曾我兄弟は、仇討をしたのか?に関しては、下記でも詳しくご説明致しておりますので、ご興味がございましたら、あわせて、ご確認頂けますと幸いです。
・曽我兄弟の仇討ちの解説【分かりやすい経緯と写真も】工藤祐経と伊東祐親の遺恨
・5分でわかりやすい【源頼朝】の解説「鎌倉幕府・征夷大将軍・鎌倉殿」旧相模川橋脚も (鎌倉殿の13人)
・わかりやすく【工藤祐経】解説~工藤氏の内紛から曾我兄弟の仇討ちへ~オリジナル家系図あり
・仁田忠常の解説【鎌倉殿の13人】北条氏に味方するも
・相模・曽我城 (曽我氏館)の歴史解説~曽我兄弟が育った曽我荘・謎の曽我信正
・虎御前(虎女)の解説~曾我十郎(曾我祐成)の妾となり生涯菩提を弔う
・城前寺の解説~曽我兄弟の墓・曽我祐信の墓・満江御前の墓(曽我荘)
・白糸の滝~世界文化遺産でもあり日本の滝百選にも選ばれている国の名勝
・富士「曽我寺」の解説~曽我兄弟の墓をお参り
・曾我祐信(曽我祐信)の解説~曽我兄弟の養父・小田原にある曾我祐信の墓
・満江御前屋敷(曽我氏下屋敷)の解説~曽我兄弟の母が暮した地
・伊東祐時の解説~曽我兄弟に殺害された工藤祐経の嫡男 (鎌倉殿の13人)
・史跡めぐりにも便利なオリジナル関東地図
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