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稚児ヶ淵
伊東・稚児ヶ淵(ちごがふち)は、静岡県伊東市鎌田にあります。
別名は、蜘蛛ヶ淵(くもが)、思ヶ淵(おもが)、稚児淵、轟ヶ淵、松枝が渕とも呼ばれ、八重姫の子・千鶴丸(千鶴御前)が、殺害された場所とされます。
八重の父・伊東祐親は、5人の郎党に命じて「子供を松川の奥の白滝の底に柴漬けにして沈めよ」と命じました。
曽我物語では、松川の奥にある「とどきの淵」に、柴漬にして沈めてしまったとあります。
柴漬け(ふしづけ)と言うのは、すのこ巻きと言う意味でして、石を巻いて、八代田の川に沈めたと言えます。
八重姫じたいが実在したか不明なこともあり、正確な場所は、わかっていませんが、下記の地図にあるポイント地点に、解説版と石碑があります。
ちょうど、イエローハットさんの裏側の川のようで、かつて、平安時代頃には、伊豆・大見城へ抜ける奥野道にも近く、修禅寺街道が通っていた所と言えます。
現在、上流には、奥野ダムがありますので、昔はもっと水量があったのかも知れません。
1160年源頼朝は伊豆配流となり #伊東 氏が監視役になりす
頼朝は #伊東祐親 の娘八重姫と恋仲になり, #八重姫 に逢うため #日暮神社 で時を過ごし,逢瀬の場所の #音無神社 に向かいます
二人に千鶴丸が生まれましたが,祐親は平家から伊東家を守るため孫を稚児ヶ淵に沈めたという悲しい伝承があります pic.twitter.com/3uAANzT34H
— 伊豆伊東ガイド・伊東へこらっしぇ (@ito_kiuinter) October 4, 2020
その後、松川に沈められた千鶴丸の遺骸は、川を流れて行き、相模湾の富戸の海岸(静岡県伊東市富戸)に流れ着いたのを、釣りをしていた甚之右衛門が見つけて、埋葬したと伝わります。
そうなると、単純に、伊豆高原の城ヶ崎海岸である絶壁から、海へと落としたのではとも勘ぐってしまいます。
もっとも、伊東祐親は、斉藤五郎・斎藤六郎の兄弟に命じて、千鶴丸を殺害したことにし、曽我祐信の元に逃したと言う説もあります。
旅の僧が、伊東家の家来を説得して助け、預かると出羽に連れて行ったですとか、
女塚にある伝承のように、甲斐源氏に預けられたあと、島津忠久になったと言う話もあります。
その他にも、色々と伝承があるのですが、西側にそびえる山は、伊豆・鎌田城です。
そうなんです。
この付近は、鎌田氏の領地だった可能性があるんですよね。
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この鎌田氏は、1160年、平治の乱で敗れた源義朝(源頼朝の父)が、尾張の長田忠致の館で討たれました際に、一緒に殺害された鎌田政清の系統とする説があります。
単に名前が同じだからと、伊豆あるある(よく調べずに憶測による)歴史地のため、なんとも、申し上げられませんが、その鎌田政清の子・鎌田俊長(鎌田新藤次俊長、藤井俊長)と言う武将の領地だったとされます。
この鎌田俊長は、源頼朝が挙兵した際から従っていたため、八重姫の千鶴丸が不幸にも沈められた1175年頃から、挙兵までの1180年の5年間に、入った可能性もあるのですが、伊豆の歴史としては、平家来襲に備えて、鎌田城を築いたともあります。
伊豆の伊東氏は、もともと工藤氏でして、伊豆の南部の多くを領する最大勢力であり、もっと西にある伊豆・狩野城も支配しています。
その中間の場所に、一族以外の鎌田氏がいたとは、なかなか理解しにくいのです。
ただし、客将扱いとも考えられる加藤景廉が、工藤氏によって、修善寺の牧之郷に住んだともありますので、同じく、鎌田俊長が工藤氏(伊東氏)の世話になっていた可能性も、否定はできないところです。
となると、鎌田氏の承諾を得て、この場所にて殺害したとも考えられるのですが、伊東氏の郎党として、鎌田氏も、数えられていたのかも知れません。
なお、城ヶ崎海岸の富戸で発見された千鶴丸の遺骸は、伊東の鎌田神社(火牟礼須比(ほむすび)神社)の枝を、手にしていたと言います。
これは、これから殺害される千代丸のせめてもの慰めにと、鎌田の祠に繁っていた、橘の花の香りがする小枝を、伊東家の郎党が渡していたと言う事です。
伊東にある最誓寺は、江間小四郎と八重姫の発願にて、千鶴丸の菩提を弔うため、創建されたと伝わります。
千鶴丸が殺害された後、源頼朝も命を狙わると、伊東祐清が知らせてくれたため、走湯権現(伊豆山神社)へと逃れました。
その途中、伊豆・多賀から熱海への山越え、登り坂の峠付近にて、喉の渇きを潤したのが下記の「一杯水」と言う湧水です。
のちに一杯水のそばに、千鶴丸を供養した地蔵尊が祀られました。
ただ、伊東には海もある訳でして、わざわざ、伊東氏館から、上流に4kmも入ったところで、殺害させたのには、ちょっと、手間がかかりすぎています。
となると、やはり、逃したのか?、それとも、単なる作り話なのか?、答えが見つかりません。
しかし、日本全国、普通の土地には、このような歴史に関する話は少ないですので、このような伝承があるだけでも、それは、大変素晴らしいことだと存じます。
交通アクセス・行き方
伊東・稚児ヶ淵がある場所ですが、道路から、伊東大川に、降りることができる会談もあるようですが、クルマを止める場所がありません。
交通量はとても少ない、1.5車線道路のため、無理して駐車できそうですが、地元の皆様にご迷惑をお掛け致しますので、そこまではできません。
前後の安全確認を行い、5秒だけ道路で停止し、窓から石碑を撮影致しました。
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電車・バスの場合、電車・バスの場合、伊東駅からバスで約20分、八代田バス停下車して、700m、徒歩約11分くらいです。
バスの本数は、1時間2本程度はあると思います。
江ノ島の西側にも、稚児の白菊が身を投げた稚児ヶ淵と言う海岸がありますので、混同しないよう、注意が必要です。
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