平将門とは
平将門(たいらのまさかど)は、平安時代中期の武将で、平良将の子ですが、生年は不詳も、903年頃に生まれた模様です。
出自は桓武平氏・高望王流と、桓武天皇を先祖に持つ系統になりますが、宇多天皇の勅命にて平姓を賜与され臣籍降下した氏族です。
そして、父・平良将(たいらのよしまさ)は、898年に鎮守府将軍として下総(五霞町・境町付近か?)へ下向し、県犬養春枝(あがたのいぬかいのはるえ)の娘を妻にし、平将門が生まれたと言う事になります。
なお、任期が切れても京に戻らず、坂東平氏の勢力を拡大して行きました。
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平将門は、元服すると平安京に上京して藤原忠平の家臣となりました。
しかし、12年仕えるも、検非違使などの官位を得られなかったため、下総に戻ったとされます。
諸説ありますが戻ったことで、所領の権利争いに巻き込まれます。
常陸大掾だった真壁の源護(みなもとのまもる)が、隣接する平真樹と対立すると、平真樹は娘・君の御前が平将門に嫁がせ支援を求めました。
源護は娘が平国香の妻、平良兼の継室、平良正の妻となっていて、平将門の父以外の一族に嫁いでいました。
そのため、この源護と平真樹の対立は、平国香・平良兼・平良正と、平将門の対立と言う大きなものに発展します。
935年、源護から襲撃された平将門は反撃に出て、下妻から真壁(まかべ)を攻略し、平国香を殺害して「平将門の乱」での最初の合戦になりました。
これに対して、源護と姻戚関係だった同じ一族・平良正(たいらのよしまさ)は、平将門追討の兵を挙げ、水守営所(常陸・水守城)から出陣します。
しかし、平将門はこれも打ち破り、本拠の下総国豊田(茨城県常総市豊田)の下総・豊田館に帰還しました。
逃れた平良正は、上総の平良兼(たいらのよしかね)※平将門の父の兄※に窮状を訴え、936年、平貞盛らとを誘って軍勢を集めると平将門を攻めました。
しかし、平将門と平真樹らは奇襲を持って勝利し、平良兼らは敗走して逃れた先の下野国の国府を包囲しています。
なお、源護からは朝廷に告訴状が出されていたため、平将門と平真樹は召喚命令に従って関東を離れ平安京に赴くと検非違使庁で訊問を受けています。
ところが、937年4月7日に、朱雀天皇が元服した「大赦」にて、全ての罪が許されました。
そのため、帰国しても一族との対立は解消されず、平将門は平良兼らの兵を筑波山に駆逐しています。
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939年、出羽国で俘囚が反乱を起こしますが、同じころ、興世王(おきよおう)が武蔵権守となって武蔵国に赴任します。
この時、武蔵の在地豪族である武蔵介・源経基(清和源氏の祖)と、武蔵武芝が紛争となりますが平将門が仲裁しました。
ところが、約束を破って武蔵武芝は源経基館の源経基を討とうとしたため、源経基は京に逃れています。
また、興世王は新たに赴任した武蔵国守・百済貞連と対立し、任地を離れて平将門を頼るようになるなどしました。
更に、常陸で不動倉(米倉)を襲撃した藤原玄明が平将門を頼ったため、940年に常陸介・藤原維幾とも合戦になります。
このように、平将門は親戚な周辺勢力から「頼られて」戦っているうちに関東を制圧してしまったとも言えるでしょう。
戦国時代に関東の諸将に懇願されて春日山城から出陣した上杉謙信に近いような?気がしますが、平将門が異なるのは「独立国家」を宣言したことです。
下野と上野へも進軍して、支配権を確保し関東一円を手中に収めると、下妻の大宝八幡宮にて「新皇」を自称し、岩井(茨城県坂東市)に政庁(石井営所)を置きました。
朝廷から束縛されない独立した国家を関東に築いた形となります。
新皇・平将門が配置した諸国の除目などは下記の通りです。
下野守・平将頼(平将門の弟)
上野守・多治経明(陣頭・常羽御廐別当)
常陸介・藤原玄茂(常陸掾)
上総介・興世王(武蔵権守)
安房守・文屋好立(上兵)
相模守・平将文(平将門の弟)
伊豆守・平将武(平将門の弟)
下総守・平将為(平将門の弟)
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なお、平将門が、各地の国庁を占拠し、国を治める象徴である印鎰(国印と正倉の鍵)を奪ったのは、倉にあるコメを、領民や家来に配布するのが、ひとつの目的だと考えられます。
例えば、915年には十和田湖が大噴火しています。
この大噴火は過去2000年の日本国内で起きた最大規模の噴火であり、京都でも「昼間なのに太陽が月のようであり、皆が不思議がった」とあります。
また、818年には東国一帯の被災地へ朝使を派遣して被害の程度を調査したとあり、東国で大地震が発生しました。
そのため、東国の民衆は大飢饉や重税で飢餓や貧困にあえいでいた可能性があり、救おうとした一面もあるようです。
828年頃からは各地で勅旨田(ちょくしでん)の開発が急増しています。
なお、平将門とほぼ同時期に瀬戸内海では、藤原純友の乱が発生しました。
平将門が関東各地の国府を占領した件は、さすがに「将門謀反」と朝廷に伝わります。
朝廷は関東から税収を得られなくなったと言う事になるため、940年、参議・藤原忠文が征東大将軍に任じられて、平安京から出陣しました。
しかし、藤原忠文が関東に到着する前に、平将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれました。
これは、正月に諸国の軍兵のほとんどを帰国させていたことや、平貞盛と藤原秀郷が軍勢を出したこと察知した、藤原玄茂の武将・多治経明と坂上遂高らが、平将門に報告することなく迎撃して敗走したことなどがあります。
そのため、平将門は、充分な兵力を持って対峙することができず、本拠・石井営所(岩井市)も攻略されました。
そして、最後は兵も逃げ出し、矢が額に当たって平将門は討死したと伝わります。
年齢的には38歳くらいだったと推定されています。
平将門の首は平安京へ運ばれ、七条河原にて晒し首となりましたが、日本の歴史上で確認される最も古い獄門の事例となります。
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平将門の独立国家は2ヶ月で終焉しましたが、武力による政権設立への道筋を鮮やかに照らし出した、日本で最初の武将だったのではないでしょうか?
平将門の妻子は下記のとおりです。
正室は、平真樹の娘・君の御前(平良兼の娘)
側室は、桔梗姫(藤原村雄の娘?)
子は、平良門、平将国、平景遠、千世丸、五月姫、春姫(平忠頼の正式)、如蔵尼
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平将門はさまざまな形で伝説化し、やがて「怨霊」として恐れられることになります。
3女・五月姫(母は桔梗か?)が、父の復習を果たそうと自ら祈願して妖術を得て「滝夜叉」(たきやしゃ)と言う蝦蟇(ガマ)になったともされます。
2020年3月のテレビ朝日系ドラマ「陰陽師」では、滝夜叉姫を女優の剛力彩芽さんが、医師の助手・如月(きさらぎ)と言う役柄で演じられます。
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